モノノケ祓いの御仕事

名沼菫

イロトリドリ

第1話 払わないヤツ




「──ところで、鳥飼とりかいちゃんとは何か進展でもあったのか?」


 危うく口中に含んでいたそばつゆを噴射するところで、耐える。

 しかし、それからすぐ、寸前のところで耐えてしまったことを後悔する。

 どうせなら、目の前でカツカレーを口一杯に頬張っているこの能天気な男に、一思いに吹きかけてやればよかったのだと思い悔やまれた。


「進展も何もあったものか。鳥飼さんとは週一回、サークル活動で顔を合わす関係なんだぞ。その今にも儚く消え去ってしまいそうな貴重な機会を、強引に事を進めたことによって失ってもみろ──僕は死んでも悔やみきれないだろうさ。なあに心配など不要さ。ゆっくりじっくり鳥飼さんと信頼関係を育んで見せようではないか」


 目の前の男は、僕の言葉に呆れた表情を浮かべると、やれやれといった風に食したカツカレーの大皿を片付け、食後のプリンに手を伸ばしていた。

 男の名前を御前春みさきはるという。

 御前とは大学入学直後からの腐れ縁である。一年と一か月の付き合いの僕が、御前のことを一言で言い表すならば『優しい熊さん』というのが的確であろう。これがなかなか身体の大きな男で、なんでも中高6年間と陸上部に所属し投擲を専門にしていたらしく、その産物らしい。身体の大きな人間は寛大でおおらかな性格の持ち主だとよくいうけれど、御前もその例に漏れなかった。しかしそんなであるにもかかわらず、これが不運なことに、その熊のごとく巨体を持つがゆえに、初対面の相手に(特に女子に)怖がられることが多いという、そんな悲しき運命を背負っているのであった。取って食ったりしないのに、だ。


「そのセリフを俺はこの先あと何度聞けば良いことか。いいか冬木ふゆき……いや、その小さい耳の穴をかっぽじってよく聞くんだ、柊冬木ひいらぎふゆき


「な、なんだよ。急に改まって気色悪い。何か変な物でも食ったのか?」


「思い出してみろ、鳥飼ちゃんと出会ったあの日のことを。あの日からどれだけの歳月がたったと思う? 一年だ、正確には一年と一か月だ。事あるごとに俺に相談を持ってきては、最終的に『ゆっくりじっくり鳥飼さんと信頼関係を育んで見せようではないか』という結論に落ち着く。あの日から進展は一切なし。はあ情けない。俺はお前のことが心底情けないよ、まったく」


 呆れたように装って、空になったプリンカップを僕のトレーに断りもなしに押し付けると、その交換とばかりにさりげなく僕の杏仁豆腐に手を伸ばしていた。

 本当に手癖の悪い奴である。

 今回こそはと一思いにパチンとその左手を叩き落としてやると、「かけそばに杏仁豆腐だなんて奇怪な組み合わせなんてするヤツを、俺はお前以外に見たことがない」だなんて憎まれ口を叩いてくるものだから、僕もついかっとなって、杏仁豆腐を一気に搔き込む。ずっと変わらぬ安心感、流石は業務用クオリティである。


「これも後学のためだ。一つ良いことを教えてやろうではないか。いいか、このトレーに乗っているかけそばに杏仁豆腐、かけそばと杏仁豆腐を組み合わせる自由を行使することは、紛れもなく僕の権利だ。ましてや僕と鳥飼さんとの信頼関係の育み方についての最高意思決定権は僕にある。お前にとやかく言われる筋合いはない」


 御前はやってられないとばかりに溜息をつくと、「はいはいわかりましたよ、柊閣下」と適当な相槌を打った。

 僕と御前の関係である。この辺で勘弁しておいてやるかと、大海原のごとく寛大な心で僕は御前を許しておいてやる。僕は些細な事を根に持たない主義なのだ。

 ようやく話が丸く収まったところで(僕が大人の対応したおかげで)、僕は自分のトレーを学食の返却口に持っていこうと立ち上がったのだが。

 その時だった。

 御前が「ちょっと待った」と凄みを孕んだ声音で、僕を制止する。

 何事かと抗議の眼差しを送ると、有無も言わさぬ殺気を孕んだ鋭い視線が──背後を見せたら殺られると、そう僕の生存本能が訴えかけてくるような視線が、僕の四肢の自由を奪い去った。


「飯代がまだだろ、飯代が」


「な、何の話かトンと見当がつかない。御前は一体何の話をしているんだ?」


「とぼけても無駄だ。かけそばと杏仁豆腐、二つ合わせて460円。しっかりきっちり払ってもらおうじゃないか」


 御前はくしゃくしゃになったレシートを僕の眼前で広げた。

 レシートには確かに、『カツカレー大盛、ぷりんぷりんプリン、かけそば(トッピングなし)、杏仁豆腐(サクランボ抜き)』と書かれていた。

 合わせてざっと1160円。

 内460円の請求先は僕になるらしかった。


「ふうむ、いやはやこれは困った。生憎なことに、今は持ち合わせがなくてね。今回はツケということにしてはもらえないだろうか? 次会ったときにしっかりきっちり払おう」


「その言葉をこれまでに何度聞いたことか。この際、俺が赤線を入れてやろうじゃないか。『恥ずかしながら、明日は我が身の生活を送っているもので。今回もツケということにしてはもらえないだろうか? 次会った時も、いや次会う時もツケでよろしく頼む』の間違いじゃないか? ツケはたまる一方だぞ」


「わ、わかったから。そう怒るなよ。ツケはまとめて来月にはしっかり払う。ちなみに僕は、御幾らばかり御前閣下に献上すればよいのだろうか?」


 御前は無言でピースサインを作って見せた。

 何だ2000円かとほっと胸をなでおろすと、パチンと頭を叩かれる。


「そんな少ないわけないだろ。合わせて2万5000円だ」


 僕の生死分け目の瞬間だというのに、コイツ変に洒落たことをしやがる。


「無理だあ、そんな大金。久しく万札さえ握っていないというのに」


「期日は三日後、5月11日月曜日。これまでのツケ全額払ってもらうからな」


 僕の必死の抗議も虚しく、話は強引に進められ、「自分のケツぐらい自分で拭け」と最後に吐き捨てると、御前はさっさとトレーを持って行ってしまった。

 実に薄情な男である。取り残された僕は考えうる罵詈雑言をひとしきり心の中で吐き出したところで、一度深呼吸をして頭を冷やし、再度着席したところで、逃れられそうにない返済に向けた算段をつけることにした。


 バイトの給料を前借する。

──無意味だ。今月はシフトに全然入っていない。足しにすらならない額だろう。


 親に借金する。

──無理だ。親からは生活最低限の仕送り以外望めない。


 消費者金融に借りる。

──借金は論外だ。あの苦しい日々の二の舞は御免被りたい。


 昼休みの終わりも近づき、眼に見えて学生が減ってきたところで、僕はある一つの賭けにも近い打開策に辿り着く。あと必要なのは、一歩を踏み出す勇気のみである。

 僕はポケットの中でくしゃくしゃになっていた万札を丁寧に広げる。

 四限は校外学習──パチンコである。

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