第3話 〜助言〜囲まれた女子大学生
「うわっ!ごめん!」
蒼斗は、思わず両手を上に突き上げた。
「な~んちゃって!あっはは、かわい~」
蒼斗の反応がよほど面白かったのか、冬美香は満足そうに笑っていた。
対する蒼斗は、エドヴァルド・ムンク作の絵画『叫び』を彷彿させる表情のまま、固まって動かなくなっていた。
(感情が振り回される……!)
そんな蒼斗の耳元に冬美香の唇が迫ってくる。
「三限も私と被ってたよね?労働時間外にこんなサービスしちゃったんだから、代わりに私のポケット六法しばらく持っててね〜」
落ち着きを取り戻した蒼斗は、わざわざ耳元で囁くような内容だったのかと疑問に思いながら、彼女の六法をカバンにしまった。
このポケット六法とは、憲法、刑法、民法、etcと…あらゆる条文が記載された、総数二千ページにも及ぶ法学部の必需品である。
とは言いつつ、これを使わずとも単位を取れる主専攻科目は数多く存在する。
問題は、この本の重さにある。
とにかく重いのである。
【三限目 特別講義 刑事事件をめぐる諸問題】
屈強な肉体を持った権田教授は恐ろしいことを言う。
「まぁ、胸ぐらを掴んだだけでも刑法第208条が規定する暴行罪に該当するわけですよ。熱血ドラマとか友人や教師が他の友人だったり生徒の胸ぐら掴むシーンとかあるでょ?熱いし泣ける展開になるでしょ?これは犯罪です。いやぁ……生きづらい世の中ですよねぇ」
この教授、サングラスをかけ、眉間から頬にかけて熊に引っかかれたような傷跡がある。
(確かに法の下では生きづらそうな見た目してるよ教授……)
蒼斗は、そう思いながら教授を眺めていた。
(積極的加害意思の有無に…正当防衛を想定した肉体改造は考慮されるのでしょうか……今すぐにでも判例を調べたい……!)
メガネをかけた冬美香は、真剣に話を聞いている。
そんな中、大喜利大会でもしているかのように、どこからか教授に対する偏見の声がこそこそと聞こえてきた。
「自室に遺体を揃えて『作品』って呼んでそう」
「世紀末の荒廃した世界を楽園だと思ってそう」
「ビニール袋は人の口に詰めるものだと思ってそう」
「尖った石が好きそう」
「黒のベンツから出てきそう」
「どの部位が一番痛いのか知ってそう」
「お花が好きとかいうギャップがありそう」
「でもやっぱり拳で解決してそう」
これが教授に聞こえたのだろうか、教授が少し口を開いた
「……私は地獄耳ですよ」
教室が静まり返る
「皆さんの大喜利に対し、私が物理的な制裁を加えることはありません。それは不法行為ですからね……」
一同は、心の底から法に感謝の意を示した。
それからというものの、特に怪我人がでることもなく、無事、講義は終盤に差し掛かる。
「当然ですが、誰もが諸君ら法学部生のように批判的思考から事象を検討したり、日頃から法律を学んでいるわけではありません。
胸ぐらを掴んだだけでは犯罪にならんと思っている輩もいるわけです。
他人に吐き捨てた悪口が時に無形の暴力として傷害罪に該当することを知らん輩もいるわけです。
正当防衛の定義も知らず、正当防衛だの叫んで人を殴ろうとする輩もいるわけです。
そんな相手に対し、法律は事後的作用しか及ぼしません。
外道に対する法の抑止力はもはや無力であるというのが私の持論です。
窮迫不正の侵害に対し、自分自信の身体という大事な権利・尊厳を保護するためには
やはり体を鍛えておくと良いでしょう」
(一理あるけど……)
(やはりあなたは正当防衛を行うために鍛えているのでは!?)
教授の正体がゴリラであることを疑わせるような図太い腕を前に、蒼斗はそう思わずにはいられなかった。
蒼斗の疑問にお答えするかのように教授は口を開く。
「因みに、私は正当防衛を実施するために鍛えています」
(自分から言っちゃったよこの人!?)
「自らの生命権を守るため、やむを得ず抵抗したその一撃で仕留めたいからです」
(……仕留める!?)
無事講義を終え、蒼斗と冬美香は正門へと歩く。
「今日の講義はこれで終わり?」
「うん……」
「そういえば、冬美香は普段どうやって通学してるの?」
「特急のアストロンラインで三十分ってとこかな」
「あれ?アストロンラインは朝緊急点検で止まってたよね?」
「そうだったんだ……じゃあ私どうして間に合ったんだろ……走ったのかな?運動苦手だけど……」
(アストロンラインで三十分の距離って……そこから走って一限に間に合ったのか!?何時に家を出たんだ!?インカレに出場できる長距離選手並みの速さと体力がないと間に合わなくない?けど、あなたさっき運動苦手って言てたよね!?)
蒼斗の中には疑問が増える一方である。
「蒼斗くんはさっき図書館に残るって言ってたよね?私はこのまま帰るね……」
冬美香は笑顔でそう言いいつつ、少し寂しそうに手を振る。彼女にとって、校内で友人のような存在と長く過ごす機会は少なく、今日のような日には、それなりの幸せを感じていたのである。
「それじゃあね」
蒼斗は、ようやく自分自身に春が到来したようだと、下り坂に並ぶ木々を見ながら考えていた。
冬美香が遠く離れていった頃、蒼斗は僅かな後悔の念に苛まれていた。
(あ、せっかくなら連絡先交換しとけばよかったか……?ただでさえ留年率の高い学部だし、協力できる仲間は多い方が……うーん……これから図書館でレポートやろうとしてたけど……どうしよ……まだ間に合うか?いや、彼氏とかいたら断られる可能性が……どうしてここで優柔不断が発動するんですか俺は!?)
冬美香は駅に到着する頃、スマホ内カレンダーにメモされていた、身に覚えのないスケジュールに悩まされていた。
(プリンクラブ……?夜職だよね……?昨日もシフト入れてたんだ……てか、私いつの間に始めてたの……!?)
駅に到着した頃、特急アストロンラインは未だ点検整備中だったことに気がついた。静まり返った駅を出ようとした頃
「なぁ嬢ちゃん、俺のこと覚えてるか?」
強面の男性が、冬美香に話しかける。
あっという間に、冬美香は刺青の入った五人組の男らに囲まれてしまい、駅から出られなくなってしまった。
「……誰ですか?」
感じたことのない不安に駆られ、たちまち冬美香は畏怖する。
「まぁこっちで話そうよ」
そう言うと、冬美香は係員のいない駅の、更に奥へと連れていかれた。
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