第42話 スカート、まだ履いてないし
惨敗したコンクールが終わってから、詩の様子がおかしいのは和音から見ても明らかだった。いつも通り明るいのだが、どこか空っぽな感じで——
「サビの入りは、もう少し柔らかい声で」
通しで和音が歌っていた「君に、届け」の伴奏の手を詩が止めた。詩が言ったところは、低音から一気にオクターブ上げて歌うこの曲の難所の部分で、どうしても声を張って歌ってしまう。
「僕、低音って苦手なんだよね」
最初に入る音は和音としては無理に頑張って出す声なので、これをさらに柔らかくという難しい注文だ。納得するまで何度か一人で声を出してみた。
「これならいけそうかな。もう一度お願い」
詩の返事がない。詩は鍵盤をじっと見つめていた。
「詩ちゃん?」
少し大きい声で呼びかける。
「——えっ、なに?」
ハッとしたように詩が顔を上げた。どこか上の空。
「もう遅いから、ここは宿題にさせて。練習してくるから」
やっぱり今日はやめた方がよさそうだ。
「うん、わかった。お願いね」
何もなかったように、詩が言った。
⌘
バッグを手に、和音は一人でそっと保健室へ入った。いつもの通り、この時間はここには誰もいないようだ。
もう一度周辺を確認してからベッドの区画にあるクリーム色の吊るしカーテンを閉め、バッグから女子用の制服一式を取り出した。
男子と女子では腰骨の形が違うため、シルエットとして一番細い部分であるウエストの位置が男女で違う。細さだけなら和音はそこらの女子よりも細いが、逆にヒップ周りが女子服を着用するには脆弱だ。
下着をつけたらボディスーツを使って、膨らみが足りない部分はハンカチなどで腰回りや胸を形作り体全体のラインを整える。誰に見せるわけではないけど、服の上から薄らと見える下着のラインもちゃんと意識して、女子用のショーツやブラも着用している。
その上から先に白いブラウスに袖を通して襟のリボンを鏡で確認して、ついでに髪型も音バージョンへ変更していく。ここらは、もう詩がいなくても手慣れたものだった。
もう何も考えなくても迷いなく服を着ながら、和音は昨日の詩のことを思い出していた。
和音でさえも、入賞は当たり前と思っていた。実際、詩の演奏は和音からすれば超絶すごいレベルの演奏だと感じていた。日頃、詩が部屋でたまに弾いてみせる軽やかな演奏と違い、劇場で奏でるピアノの迫力に圧倒されたのだ。
だが、舞台から降りた詩ははなっから首を横に振りながら、タオルに深く顔を埋めて顔を上げなかった。
いったい何が悪かったのか、素人の和音には聞きようもなかった。ただ、何かを失敗したとしかわからなかった。
——どうやって元気づけよう。
着替えの手を止めて、和音はしばらく考え込んでしまっていた。
カタカタッと小さな音がしたことに和音は全然気がつかなかった。突然和音が座っているベッド周りにあるカーテンが少しだけ開いて、井坂先生が顔を覗かせたのだ。
和音が振り返って先生と目が合い、何が今起こっているのか理解するのにしばらく時間がかかった。そして、ブラウスまでは着用しているとはいえ、スカートはまだ履いてないことにやっと思い至り、慌ててタオルで隠した。
「なあに? また具合が悪くなったの?」
「い、いえ。そういう——」
先生はツカツカと和音のところへ来て、腕を取った。
「無理しちゃダメよ。具合が悪いなら寝てなさい」
まず和音の手首に指を当て、腕時計を見ている。
「あら、脈がちょっと早いねえ」
当たり前だった。今、和音は超絶焦っていた。ブラウスを着ていなかったら、絶対バレているはずだ。
次に和音のおでこに手を当てた。
「熱はなさそう」
独り言のように呟く。
「ちょっと待ってて」
井坂先生はそう言うとカーテンの向こうへ消え、しばらくしてメモリのついた器具を手に帰ってきた。
「一応血圧も測ってみようね」
先生は手慣れた手つきで和音の上腕にベルトを巻いて、聴診器を当ててシュポシュポと血圧を測っている。
「ちょっと低めだけど、まあ体質もあるしね」
和音の足元に畳んで置いてある毛布を崩すと、和音を横にさせ毛布をかけた。
「気分悪くてスカートも脱いでたんでしょ。どこか苦しかったかな?」
「いえ、ちょっと立ちくらみがしただけで、たいしたことは……」
仕方ない。先生に合わせよう。
「上杉さんさあ。私、何回かあなたのクラスを覗いたんだけど、いっつもいなくてね。やっと捕まえたわ」
「ああ、西園寺さんから聞きました」
「相変わらず細いのねえ。もう少し太ったほうがいいよ? 生理は? 順調?」
そんなもん、最初からございませんが。
「大丈夫です」
「本当に? 何かダイエットでもしてるの?」
「いえ、全然。元からです」
「無理なダイエットしてる子って、みんなそう言うんだよね。モデルさんみたいな体型に憧れるのかもしれないけど、あれは体に悪いんだからね。それに、太らなきゃ胸だって大きくならないんだよ」
いや、食べても先生みたいにそこは大きくなりませんよね、きっと。
曖昧に笑ってごまかすことにした。
「音ちゃん、まだあ?」
そこへ詩がやってきて、井坂先生がいることにとても驚いたようだ。
もう少し休んで行きなさいと言う先生に、家まで送るからと詩が説き伏せて、やっと解放された。
MIX ミックス〜詩と音の物語 西川笑里 @en-twin
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