第36話 さよなら、だってさ

「なあ、和音」

 寝っ転がって和音の部屋で漫画を読んでいた石上が話しかけてきた。

「なに?」

 最近、詩から教わった冷たい紅茶を作り、テーブルに肘をついて和音がカップを口元に持っていったときだ。

「——キスしたことあるか?」

 ブッ——和音はおもわず紅茶を吹き出した。

「あーあ、何やってんだよ」

 石上はさっと立ち上がると、ティッシュを箱から引き抜いて和音のジャージとテーブルに溢れた紅茶を拭いてくれた。

 あーあ、シミになりそう。自分でもトントンとティッシュで生地を叩いていると、

「その様子じゃ、和音はまだだよな」

 石上がニヤリと笑う。

「キスぐらいあるよ、私だって」

 どうも最近その機会が多いので、言葉遣いが女子になってしまうときがあるが、とりま反論。和音は心を落ち着かせるため、紅茶を一口含んだ。

「ふーん。じゃ、相手はやっぱり男?」

 今度はもっと盛大に吹き出した。再びバタバタと拭き掃除をする。

「なんでそうなるのさ。しかも、やっぱりって……」

「女子になった和音はモテるかなって思ってさ。きっと男がほっとかないぞ。俺も夢ランドで危うくしそうになったくらいだしな」

 ——まあ、半分当たってるけどね

「で、相手はどこの誰とだよ。白状しろよ」

 石上がニヤニヤ笑って和音の肩に手を回して、体を少し揺すった。

「ナイショ」

 ——君だよ、なんて言えない

「でもなあ、男子としての和音とキスする女子——あっ、まさか詩子か」

「い、いいじゃないか、僕が誰とキスしても」

 曖昧に誤魔化そうとするが、石上も結構しつこい。

「ははん、したって実は嘘だろ。意外と堅い詩子がするわけない」

「じゃあ、いいよそれで。それより石上君は?」

「当たり前だ。俺はこの間、運命の人に出会って——したんだよ、ファーストキス」

「へえ、やるう。可愛い子だったの?」

 ——僕も初めてだったんだよ?

「あれは女神だな。ツンデレだけどな」

 ——正解

「でも、石上君は音ちゃんがいいって常日頃」

 外で遊ぶときは、可愛い服を着てこいってうるさいくせに。

「ああ、でも音ちゃんはほら、所詮手に入らない子だからさ。キスするわけにはいかないだろ?」

 石上は両掌で和音の顔を包んだ。そして、何か思い当たったようにじっと和音の顔を見ている。

「どしたの?」

「今、気がついた」

「何を?」 ドキッとした。ついにバレた?

「この間会った子って、音ちゃんに似てたんだ。なるほどなあ。俺の好みだったんだな」

 石上がひとりで頷いている。

「それでいきなりキスなわけ?」

「いきなりじゃないよ。彼女が俺に寄りかかってきて、俺が彼女を見たら二人の視線が、こう絡まってさ」石上がなごみの代役に和音をグッと抱き寄せた。「そしたら、キラキラした目で彼女が『キスしていいよ』って顔をしたんだよな」

 もう石上の顔が和音の目の前にあった。その瞬間に、あの時を思い出して胸が高鳴った。

「う、嘘だあ。それ、どんな顔よ」

 いけない。言葉が女子になりそう。

「嘘じゃねえよ。彼女に、こうしたら——」

 グッと石上の顔がさらに近づく。なぜかつい反射的に目を閉じてしまった。

「そうそう、そんな風になごみちゃんが目を閉じたんだよ。それって、女の子がキスしていいよって言ってると思わないか?」

 石上の顔が離れても、和音は動悸が止まらなかった。

 じゃあ、石上君の中じゃ僕が誘ったってことになってるってこと?


「で、それからなごみちゃんだっけ。その彼女とは?」

「映画を観てたはずなのに、覚えてないんだよな。信じられるか? なにせ、映画の2時間ほとんどキスしてたんだぜ」

 はい、確かにずっとキスしてましたよね。おかげでリップを塗り直すのに大変だったよね。それに、実は僕も頭が真っ白で映画の内容を全く覚えてないんだよね。さすがに詩ちゃんには1分くらいのキスを2、3回かなって嘘ついたけどさ。

「たぶん、キスの好きな子だったんだね」

 あのとき僕、どうなっちゃってたんだろ。逃げられなくって開き直って、そしてキスで頭が変になっちゃってたみたいだ。

「おう。グッてこう抱き寄せたら、最後には彼女の方から首に腕を回してきてさあ」

 また石上が和音をグッと引き寄せた。

「へ、へえ。ずいぶん積極的な子だね」

 和音の頭が必死にその時のことを思い出そうとしてたが、そのあたりは記憶が全部飛んでしまってるみたいだ。


 そして石上が、ふうっと大きくため息をついた。

「それなのに、映画館を出た瞬間に、じゃあさよならって。たぶんもう会うことないからって」

 和音の肩に手を置いたまま、石上がガックリと項垂れた。

 ——さよならじゃないよ。そのなごみちゃんはここにいるよ

 気づかれても困るけど、あんなにキスしたのに気づかれないのもちょっとモヤモヤするもんだね。

「彼女、今頃俺の唇の感触を思い出して、もう一度会いたいって思ってくれてないかなあ」

 また石上が大きなため息をついた。


 大丈夫だよ。その感触はすでに詩ちゃんに「中和」してもらったので。

 和音がそっと思い出して笑ったことは、石上はきっと気づいてない。


 それが三人にとって、夏休みの最大の事件だった。

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