現れたのは……
「はぁ……地獄だったぁ」
無限にも思える時間をくぐり抜けて、今はあれから約半日たった午前0時。とある一軒家の2階にある自分の部屋で、机の上の照明を唯一の灯りに、今日の災害を思い出してしまっている。
ああああああああ……本当、もう散々だったよぉ。
あれからトイレで弁当を食べようとしたはいいものの、弁当箱を開いたところで手が滑って中身がほとんど便器の中に入ってしまった。おかげで今日は昼飯なし。午後の授業では五分に一回は腹を鳴らせて、最初は笑っていた男子たちでさえも最後の方は苛ついて舌打ちが教室内に響いてた。
「ああぁぁぁあああ」
「勘弁してくれよ……………………グェっ」
机に突っ伏しながら、再び襲ってきた羞恥に僕は机をバンバン叩く。するとその揺れで机の台に雑に突っ込んでいた教科書が一冊僕の頭に墜落した。地味な痛みに悶絶。この局所的な痛みは絶対角だ。
……あああ……いったぁ。
「もー……なんだってんだよ。––––はぁ。水でも飲みに行こう」
あー、そういや今朝ゴミ捨てるの忘れてた。一階の廊下に置きっぱだったっけ。本当にどうしてこう、嫌なこととかうっかりって集中するんだろう。
最悪だ……本当に最悪だ。
僕は部屋を出て真っ暗な廊下に進む。
頭をさすりながら、階段を降りて冷蔵庫がある一階へ向かった。
そして一階に降りて、冷蔵庫のある部屋を開けようとドアに手をかけたところで
−−−−ドアのすりガラス越しに、何かいることに気づく。
今日も同居している父は帰っていないからこの家には一人のはずだ。僕の家族は父親だけで、母親は僕を産んだ時にもう亡くなってしまった。それ以外に兄も姉もいないし、もちろん妹も弟もいない。父さんも忙しくてほとんど帰ってこれない。寂しいって言うのも……うん、もう飽きた。
そう、だから父が帰ってこない今日は家には誰もいないはずなんだ。この家の鍵を持っているのも、僕と父さんしかいないんだから。
なのに
『…………っ……っ………………ぷはぁ』
なんで、誰かが水を飲んでるんだ?
え? 何? ナニなになんで⁉︎
この家には僕一人なはずなのに、どうしてこんな明らかに誰かが飲み物を飲んでいるみたいな音が真っ暗闇の中に響いてるんだよ⁉︎ 冷蔵庫から何かを……あのシルエットは紙の牛乳だよな。あのすりガラス越しに見える真っ黒な人形のシルエットって……え待って待ってちょっと待ってよ!
こ、これってもしかしなくても……ゆ、ゆゆゆゆゆっゆゆゆっ幽霊⁉︎
……な、わけないよな。多分……泥棒だ。
ま、まあそれはそれで信じられないけど、怖いけど、幽霊よりもよっぽど可能性がある。
ついてない……本当についてない! 恥の多い人生の中でも人生最大の黒歴史を作った日の夜に、家に泥棒が入ってくるだなんて。
とりあえず僕の力じゃ泥棒なんてどうにかできないどうしようか……。
っていやマジで泥棒は泥棒でやばいじゃん何ちょっと安心してるんだよ僕⁉︎
ど、ドドドドどっどオドどどどうしようどうしようどうしよう……ととととりあえず、に、逃げなきゃ!
落ち着け僕。そ、そうだ。物音を立てないように……ゆっくり玄関に行こう。
ゆゆゆっくり歩いて、そおっと、そおっと……
外に出たら、後はもう全力で走って駅前の交番でこれを説明して……僕じゃ泥棒はどうにかできなくても、お巡りさんにどうにかしてもらうんだ。
「−−−−って、痛ったぁ⁉︎」
な、なんだ⁉︎
足元を見ると、足の小指を新聞の束にぶつけていた。
って、これ今朝出し忘れてたゴミの袋じゃん!
あっまずっ! そこまで痛くなかったのに極限状態の中でつい声が!
『っ! ……そう。いたのね。私としたことが牛乳に現をぬかしすぎていたわ』
ドアの向こう、冷蔵庫の中の明かりだけが灯る真っ暗闇の部屋の中から女の声が聞こえた。
それと同時、ドアの向こう、すりガラス越しに人型のシルエットがこっちへ向かってくるのを見る。トン、トン、と深夜の家の中を、徐々に大きくなる足音が響いている。
「っっ〜〜〜!」
声にならない声が僕の口から空気の塊となって出てくる。
やばいやばいやばいやばいやばい!
ど、どどどどどどうしよう完全に泥棒にバレちゃったよ! 早く逃げないとぶっ殺される!
ああああ早く逃げないとああああああああああ!
僕は一秒ほど遅れてやっと体が動いた。一心不乱に走る。ただその走った方向は玄関とは真逆。人間の本能なのかは知らないけど、どうしようもなくなった時に人は自分の慣れ親しんだ場所へと向かうようにできているんだろうか。外へと向かおうとしていた僕の最初の意志とは関係なく、体は勝手に部屋へと繋がる階段に向かっていた。
階段をドタドタと駆け上がり、途中で躓いたりしたけど決死の覚悟で体のバランスを立て直す。
『待ちなさい。純』
その最中にも後ろからパタパタと僕を追ってくる足音が響き、そしてさっきの女の声で僕の名前が呼ばれ続ける。つーかなんで僕の名前知ってるんだよ!
「やああああああああああああああややややっやややややああああああああっやややややややっやややややややややっやややややややっややあああああああああああああああああああ!!」
あああああああああああああああああああああああ嫌だ殺されたくない殺されたくない殺されたくないよ! まだぼく高一なんだよ勘弁してくれ! まだゆららちゃんにちゃんと告れてないのに!
次々に後ろから迫ってくる女の声を無視して、叫びながら僕はなんとか部屋に雪崩れ込んだ。
すぐに鍵をかけ電気をつける。そして体をドアから一番遠い部屋の隅っこに押しつけ体育座り。
胸のドキドキが酷い。あれだけ走ったというのに、体の芯から冷えているような気がした。
……あれ? 泥棒の声も物音もしなくなった……?
さっきまでの狂騒がまるでなかったかのように、静寂が僕の世界を覆う。
あの女泥棒が部屋を開けようとする音もしないし、そして階段を降りる音もしない。
−−−−さっきまであれだけ騒がしく後ろから喚いていたのに。
ああ、そうか。もしかしてきっとまだ……あの扉の向こうで僕が出てくる機会を待って……。
あの扉の向こうで刃物を持ち虎視眈々と僕を狙う女を頭で想像し、危うくちびりそうになる。まさに恐怖だ。未だに意識が飛んでないことを褒めてもらいたい。
ガチガチに体を固め小さくなりながら、僕は思う。
こんな時でも冷静に、動揺しないでかっこよく立ち振る舞えたらなって。
−−−−そして、十分が経過した。
「あ、あれ……もしかして、もうウチから出ていったのかな……」
あれから僕はここで静かにこじんまりと震えていただけだった。耳もすましていたから、深夜の静かな家の中では物音がすればすぐに分かる。さっきからずっと、何の物音も確かにしなかった。
いや、ってことはまだ……あのドアの向こうに……。
僕の部屋のドアは、廊下が見える覗き穴がある。
僕はなんとか自分の体を奮い立たせ、その覗き穴に体を向かわせた。僕の仮説が正しければ身を潜めたあの泥棒女の姿が見えるはず。
音を立てないように、ゆっくりとドアへ進む。
たっぷり30秒くらいかかっただろうか? たかだか3メートルくらいの道のりを亀もびっくりのスピードで移動した。
そうして、ゴクリと唾を飲んでから−−−−覗き穴を見る。
何にもいなかった。
部屋の外には電気をつけてないから、薄暗い世界があるのみ。どんなに目を凝らしても人の姿のようなものは確認できなかった。
いくら目を凝らしても同じだったから、本当にドアの外にはもういないのだろう。
……とりあえず、僕を追うのは諦めてくれたのかな?
自然に短くため息が口から漏れた。ひとまず安全が訪れたことに心底ホッとする。
その瞬間、ふっと体の緊張が解かれる。膝から床に崩れ落ち、ペタリと床の上で正座の形になって、そうして空な目で天井を見上げた。考えなくちゃいけないことは多いけど、ひとまずホッと大きく息を吐こうとした、その時。
「あらあら。一体何を油断しているのかしら」
……見上げた天井には、さっき冷蔵庫からパックの牛乳をとってごくごく飲んでいたあの女の顔がああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!
「……驚きすぎて声が出ないって、本当にあるものなのね。顎外れてるわよ」
半目で呆れたような声を出しながら僕の背後に、それは立っていた。
目をかっ開いて天井を向いた僕の顔。その上から見下ろしていたのは、
さっきの泥棒女と同じ声、綺麗な長い黒髪をした女の整った顔だった。
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