序章:末(すゑ)の松山

「一応聞くが、天。『怨魔えんま』から人間だけを切り離す方法は分かっているね」

「当たり前だ! お前と組んでどんだけ経つと思っているんだ!」

「それはそうなんだが、うっかりさんの天さんの事だから、てっきり忘れているかと……」

 月読がそうからかうように言った時、地面からアスファルトが抉れ、月読と天照に向かった。石の塊が弾丸のように向かってくる中――天照はすぐに月読の前に出て、太刀で一刀両断した。

 その時、太刀の刀身全体が熱を持ったように紅く光った。何かが焦げた臭いが空気ごと焼くが――それは一瞬の事のように、すぐに元の太刀の色へと戻る。

 ――これが、火の神の加護持ちの力か。持ち主と違って優雅な色を出しやがる。

 月読はフッと零すように笑った。

 そして、空を見上げる。

 結界でぼやける夜空の向こう側に、確かに月が光っていた。

「全く折角の月夜を台無しにしてくれたね。これは早々に終わらせて、月でも愛でに行きたい所だが……」

「お、飲みに行くのか? 俺、いい店知ってんぜ」

「ちげえよ。まったく、お前のそういう所が風情がねえんだ……」

 と、月読は右に舞うように避ける。少し前まで立っていた場所は大きく抉れた。

「大体、お前の紹介する店の酒はどうも好かねえ。ただ度が強いだけで、甘味が足りない」

「……ったく、これだから甘党は。あんまり甘いもんばっかとっていると、そのうちツクヨじゃなくて、ブクヨにな……っと、あぶね!」

 月読が後ろから天照の肩に扇子を振り下ろし、それを天照が寸前で避けた。

 ついでに、『怨魔えんま』の放つ黒い衝撃波も太刀で斬った。

 ――相変わらず便利な太刀だな。

 天照の持つ太刀は魔を払うと言われており、妖怪から生まれたものや呪術のような禍々しいものを一切寄せ付けない。ただ太刀が触れただけで消える消滅する始末だ。

 だから、彼のように決まった太刀筋すらなく、乱暴に振り回すだけでも簡単に払いのける事が出来る。

「テメエ、月読! 何すんだ! 危ねえだろ。俺だったから良かったものを」

「お前だから、やっているんだ。つまり、これは一種の信頼だ」

「そ、そうなのか?」

「そうなんだよ」

 そう月読が言った時だった。月読のイヤーカフ型の通信機から、騒々しい声が響いた。

『お前ら、さっきから何やっとんのじゃ! 全部筒抜けじゃぞ!』

「げっ……伊吹いぶきの旦那」

 通信機の向こう側で叫んでいるのが誰か察し、月読はため息と共に吐いた。

『このままじゃ日が暮れちまうぞ! とっとと仕留めんかい!』

「あー、いいよな。現場にいねえ奴は好き勝手言えて」

『月読、さっきから全部聞こえているからな!』

 あ、そうだった。この男は、そういう男だった。

 ――あぁ、こりゃあ朝まで説教コースだな。

 月読はさらに盛大にため息を吐く。

 が、その時、突如大きな地響きが起こった。まるで地震ように左右に激しく揺れる。

 月読と天照がいる場所はビルの上であり、もし本当に地震が起きていたら、大事件だ。

 ――夜に渋谷のオフィス街でビル倒壊なんてなったら、みんな大騒ぎだろうな。

 そんな呑気な事を考えながら、月読は地響きの中心にいる『怨魔えんま』を見やる。

 土煙や夜闇と同化していて分かりづらいが、『怨魔えんま』の指や足元からは黒いモヤのようなものが放出されている。それは墨のようにポタリ、と地面に落ち――そして地面に貼りつくと根っこのような形状となり、地面を侵食していく。

「何してんだ、あいつ?」

「あえて言うなら、なんも考えてねえんじゃねえか……我を忘れた、鬼のなり損ないなんて、そんなもんだろ」

 こんな状況でも月読と天照は顔色一つ変えず、焦りすら見せずに会話を続ける。

「しかし、この歳で叱られるのはごめんだ。あの人、説教長いし。天……頼めるか?」

「頼むって、何するつもりだ? 力ずくで突っ込んだ所で、あの嬢ちゃんと『怨魔えんま』の縁の糸を解かない限り、取り除く事は出来ねえんじゃ……」

「そこは、わなみが何とかしよう。だから、天。お前は……敵を、斬れ。それは、わなみには出来ない事だからな」

 月読はそれだけ言うと、天照の返事も待たずに『怨魔えんま』に向かって優雅に、けれども素早く歩み出した。

「人間の執着を、力ずくに壊す方法は心得てるからな……」 



「もう、やめておけ」

 月読は『怨魔えんま』に近づきながら、そう声をかけた。

 ただ、普通に話しかけるように。

『ア、 ガ……』

 武器も、妖気もない、ただの人である月読が怯えも警戒もなく近づいてくる様は異様であり、『怨魔えんま』は動きを止めた。

 ――攻撃対象を選ぶ心は残っている。となると、解くのは案外たやすいかもな。

 月読は扇子で口元を隠しながら、『怨魔えんま』との距離を詰める。

 やがてすぐ目の前まで来ると、『怨魔えんま』は威嚇するように怪しく光る眼で月読を映した。

 ――たしか、『怨魔えんま』化する直前に裏切り者だの、許さないだの言っていたな。

 理由は直接聞いたわけではないが、大体察しはつく。

 屋上から飛び降り自殺を考える程だ。オフィス街のビルとなると、このビルはおそらく彼女の勤務先。

 ――それに……


 契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末(すゑ)の松山 波越さじとは――。


 これは心変わりした女に詠んだ歌だ。

 罵倒するような激しい恨みではなく、心変わりした彼女への未練と恨み切れない自分自身を嘲笑うような、とても静かな呪い。

 『怨魔えんま』は和歌に取り憑いた怨念と、失恋して傷心した女と同調する事で生じる。つまり彼女の心を解くヒントは和歌にある。

 ――もし和歌の通り、心変わりした相手への未練とシンクロしたのなら……

「契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末(すゑ)の松山 波越さじとは」

 月読は詠いながら、『怨魔えんま』の、黒い物体の中にある女の顔を覗き見る。黒い文字に浸食された肌からは表情は感じられず、そこに心があるのか分からない。しかし紛れもなく『それ』は確かに人である、と月読には思えた。

「好いた相手に裏切られて、さぞ哀しかっただろう。悔しかっただろう……だけど、それは本当に恋だったのかな?」

『……っ』

 月読の言葉に、『怨魔えんま』の、女の動きが止まった。

 怒りとも哀しみともいえない、或いはその二つが混じった、女の怨念。それが両目にしっかりと現れた。

 ――よし、捉えた。

 月読は目が合った瞬間、扇子を彼女に向ける。

「宵町の血ノ縁の下に、我、詠う――奏でろ、68の歌」

 月詠が詠うように、或いは命じるように告げた。


「【心にも あらでうき世にながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな】――さあ、恋の結末を届けにきたぜ」


 刹那、扇子から紅葉の吹雪が飛び出し――黒い塊の周囲を覆う。

 黒かった筈の塊は緋色に染まり、秋色の渦の中で女の泣き声が聞こえた。


       *

『何で、私だけが我慢しなきゃいけないの……仕事の、居場所も、奪われて……あなたまで奪われて……他の誰に裏切られてもいい……あなただけいれば、あなただけは、裏切らなければ……許さない……私を捨てて、あの女をとったこと……あんた達だけが幸せになんて……そんな不公平、あって、たまるもんか……!』


「ごめんね……」

 その時、声が聞こえた。

 その声は覚えている。決して忘れる筈がない、愛しくて憎い人の声。

「幸せにできなくて、ごめんね……君をいっぱい傷つけてしまって、ごめんね……がんばり屋な君にはいつも我慢ばかりさせていたね……でも、どうか忘れないで……きっと、君は、あの子よりも、幸せになれる……」

 そこで、ようやく彼女は自分が白いだけの空間にいる事を気づく。

 まるでこの世とあの世の狭間のような、不思議な場所。

 浮かぶように立つ彼女の前に、見知った人物が現れた。

 その顔を見た途端、彼女は涙を流しながらも、「彼」を睨みつけた。

『なん、で……こんな時に……そんな言葉でっ……今更、そんな言葉でなんて……っ……!』

 泣きじゃくりながらも、彼女は訴える。

『わ、私……あなたのこと、好きだったんだよ? 本当に、好きで……好きなままで、いたかったんだよっ……』

「うん、分かっている……君は、恋をしていた。この男に……」

『え?』

 どうして、そんな他人事のような――

 そもそも、彼は本当に自分の知る「彼」なのか。

 まるで彼そっくりの誰かが彼のふりをしているような――そんな違和感が徐々に膨れ上がってくる。

「本当に、ごめんね」

 しかし、彼の本当に申し訳なさそうな顔を見ると、その僅かな違和感すら吹き飛んでしまった。

『だから、今更、そんな顔で謝られたって! あんたなんて、あんたなんて……』

「でも、これは君の幸せのためでもあるんだ」

『浮気したくせに、どの口が!』

「だって、きっと、君は、僕との結婚生活は耐えきれないと思うから……だって僕は――マザコンだから」


 ……は?


 申し訳なさそうに笑う彼がなんて言ったのか分からず、彼女は言葉に詰まった。

「だから、僕はマザコンなんだ。それも重度の……毎朝、ママに起こして貰わないと起きる事が出来ないし」

『マ、ママ?』

「眠る時も、ママにお胸をトントンして子守歌を歌って貰わないと、眠る事が出来ない。ママがいいって言った人と付き合ってきたけど、その誰もがママの代わりになるわけじゃない。だから、僕と結婚しても、きっと君は幸せには出来ないって思ったんだ。だって、こんな男が夫だなんて、君は嫌だろ?」

『そ、それは……』

「君はママに似ているから、最初は君が僕のママになってくれればって思った。だけど、違うんだ。君は、ママじゃない」

『そうだけど』

「それとも、君は、こんな僕でも、まだ好きでいてくれる? 僕が謝って、よりを戻そうって言ったら、やり直してくれる? こんな浮気者でマザコンで、新婚旅行も三人で行くつもりの僕と」

『……あぁ、そうか。そうだったの……ええ、今、はっきりと分かったわ』

 彼女は目の前の彼に優しく微笑む。

『私、あなたしか知らなかった。だって、初めての恋だったから……だから、私はきっと見落としていたのね。あなたの本質を……今なら、はっきりと分かる。私は、ただ恋がしたかっただけ。あの女に勝つために、あの女にまた学生時代の時みたく見下されて、バカにされないために彼氏が欲しかっただけ。だから、私は……あなたの事なんて……』

 そこで彼女はフルフルと震え出す。そして、瞳に溜まった涙と共に、叫んだ。


『最初から、好きじゃなかった!』


 泣きながら怒鳴る彼女を前に、彼は相変わらず優しく微笑むだけだった。まるで仮面でも被っているように。


「ああ、そうだね……それは恋じゃないし、好意じゃない。だったら、もう――未練はないよな?」


 優しく――そして怪しく微笑む彼が笑みを深めた瞬間、彼女の意識は徐々に遠のき始めた。

 閉じ始める瞼の中で、彼女は「彼」の姿が別の男のものに見えた気がしたが――それも紅葉の渦に包まれて、人影ごと紅色に呑まれた。


 ――はい、未練の断ち切り、完了……


 嘲るように笑う男の声だけを残して。

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