序章:波越さじとは
*
『最初から、好きじゃなかった!』
女が叫ぶと同時に、肌に貼りついていた黒い文字が薄れ始め、墨に埋もれた中から人の肌が見えた。
そして胸元で心臓に根を張るように蠢いていた絵巻が姿を現した。
糸が解けたように身体に貼りついていた絵巻はゆっくり剥がれ始め、彼女の体内に根を張っていた糸が遠ざかる。
それでも必死にしがみつこうと糸は彼女の身体を捉えようと蠢くが――
「見えた……糸が切れる! 天、今だ!」
月読は場所を譲るように退きながら、天照に声をかける。
「合点承知だ!」
天照は地面を蹴ると同時に、太刀を振り上げる。そして、月読の肩を踏み台に飛び上がり――絵巻から伸びる糸を一刀両断した。
『ぎゃああああああああ』
天照が地面に降りた時には、彼女の身体から黒い染みが消えていった。
糸が切れて剥がれ落ちた絵巻は地面に落ちると共に墨が塊で落ちたように黒い物体となり、大地の上を生き物のように蠢く。
「月読、いったぞ!」
天照が月読の名を呼ぶと、入れ替わるように月読が前に出た。そして、懐から巻物を取り出す。
「さあ、来な!」
月読は叫ぶと共に巻物を大きく広げると、一際大きな風が拭き――黒い物体は白紙の巻物の中に吸い込まれていった。
『四十ノ二:契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末(すゑ)の松山 波越さじとは――』
白紙だった巻物には、和歌が刻まれていた。
「ひとまず切り離し完了、か」
と、月読は絵巻を見て呟いた。
その時、背後で小さな物音がした。
「そうだった……忘れる所だった」
月読が振り返ると、女の身体が地面に落ちていた。
黒でも緋色でもない、元の自然な色に戻っていた。
「裏切られてもなお想い続ける恋心が、絵巻に同調したって所か」
「にしても、お前、何したんだ?」
天照が怪しむように月読を見た。
「お前がどんな幻術見せたかまでは分からねえが、いきなり泣いたり、怒ったり、呆れたり……それに、あんなに絵巻と同調していたのに、急に剥がれ落ちるなんて」
「ふっ……人の執着なんざ、そんなもんさ」
月読は優雅に笑う。
「恋は幻想って言うだろ。あのお嬢さんは恋に夢を見過ぎていたんだ。だから、恋に囚われた。引き剥がすには、その幻想を打ち砕き、憧れを失わせればいいだけさ。結局、可愛かったのは、愛していたのは、自分の方……好きだったのは、恋人のいる自分であって、その本人じゃねえ。いや、本当はただ勝ちたかっただけかもな」
「んー? だから、結局どういう意味なんだよ? バカにも分かるように言ってくれ」
「自分でバカって認めてしまうのか。いいのか? お前、本当にいいのか? いくら
「そうは言うが、分からねえもんは分からねえし……」
素直に答える天照に、月読は小さくため息を吐いた後、ポンと天照の肩を叩いた。
「天は知らなくていい事だ。それよりとっとと『糸』の回収して、帰ろうぜ」
「へいへい」
そう月読に返し、天照は彼女の額に触れる。
天照の手から淡い光が漏れ出た時、彼女の胸元から複雑に絡まった赤い糸が飛び出た。
「うわぁ、すっげえこんがらがってやがる。確かにお前の言う通りかもな……人の縁ってのは、俺には、よく分からねえや。こんなに複雑に絡む程、難しいもんじゃねえだろ」
「お前みたいに単純に生きられたら、誰も苦労しねえだろうが……いや、だからこそ、なのかもな。分からねえからこそ、手に入れたくなっちまうのかもな……この『百鬼絵巻』みてえに」
――かつて、酒呑童子と呼ばれた鬼がいた。
*
のちに「日本三大妖怪」の一つに数えられる、その鬼――。
悪行の限りを尽くし――、やがて源頼光一行によって討ち取られた。
が、その時――彼を鬼に変えた女達の怨念が体外に漏れ出た。それにいち早く気が付いた陰陽師は自らの命と引き替えに、彼の中にあった女達の怨念を百に分けて絵巻の中に封印した。
『百鬼絵巻』と呼ばれるそれは、百の和歌が記されている。
百人一首が綴られた、和歌が。
百人一首の歌と邪気が融合した怨念は、その歌に同調した乙女に取り憑き、鬼へと変える。
そして――
*
月読と天照は、互いに少し離れた位置に立つ。
月読は誰にも邪魔されない静寂な月に、天照は賑やかな街を、それぞれ見つめていた。
「百人一首に綴られた想いに同調した時、乙女は【怨念】に取り憑かれ、恋した相手を食い殺す化け物『
「そして、恋した相手を食らっちまった時、本当の意味で鬼になる、か……まったく、あと幾つ残っているんだろうな」
「そんなの、決まっているだろう……」
月読は薄く笑い――
「敗れた恋と、破れた心の数だけだよ」
*
場所は東京の街。
恋に嫉妬に誓い――数多の人の想いが行き交う場所。
恋に敗れた怨念を払うは【アヤシ課】と呼ばれる、妖しい輩。
闇を祓うは、二人の伊達男。
彼らが救うは人か、恋か――。
ああ、今日も歌が空に舞う。
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