序章:かたみに袖をしぼりつつ
「ふぅ、結局、こうなるのか」
青白い肌には黒い斑点が浮かび――無数の点によって、全体が真っ黒と化している。
黒い斑点に見えるそれは、正確には一つ一つが文字になっており、無数の文字が集合している事で、くっついた文字によって肌が黒く塗り潰されている。
「恋する乙女は盲目とはよく言ったもんだな……本当に厄介だ、恋する乙女の『残骸』ってぇのは」
月読は目をすっと細くする。
「いいや、あれはもう人とは呼べないな。鬼にもなれず、人にも戻れず……かつて人だったものの残響」
月読が肩をすくめて薄く笑った時だった。
空と屋上の狭間で蠢く黒い塊から、影が伸びた。
影といっても物体化しており、先は鎌のように鋭く、月読の首を狙って向かい――
「おらあああああああああああああ!」
が、影の鎌が月読の首を撥ねる直前、赤い閃光が影を断ち切った。
切り落された影は残煙のように薄く漂い、やがて消滅した。
「よっと……大丈夫か? 月読」
赤褐色の髪に、黄色の瞳。
そして黒いスーツに、刀身が赤く光る太刀を片手に持った長身の青年。
「相変わらずアンバランスな恰好しているね……
「これが、俺のユニフォームなんだよ! リーマンなめんじゃねえ」
長身の青年――
「それより、天。分かっていると思うが……」
「ああ、こいつが、そうなんだな?」
天照はすぐに赤い太刀を両手で構え直し、目の前の敵――黒い塊を鋭く見据える。
「さっきまで気配が薄かったって事は、まだ浸食される前だったよな? お前、何したんだ」
「失敬だね。ちゃーんと傷心した乙女心を慰めようとしたぜ……まあ、一度傷付いた心は、そう簡単には戻らねえって事だね」
「それっぽい事いっているけど、ようは失敗したって事じゃねえか!」
「まあ、そう興奮しないで」
「してねえよ!」
「それに……浸食する前に回収するのも、弱らせてから回収するのも、結果は同じだろ」
「それは、そうかもしれねえが……あー、なんかうまい事乗せられている気が……」
「気のせいだ。それより、天……来るよ」
月読は目をすっと細くし、前を見据える。たったそれだけで天照には伝わったようで、天照はすぐに太刀を構えて月読の前に出た。
そして、月読は徐々に後ろに下がり始める。
――共戦といきたい所だが、それは無理な話だからな。だって……
「ここから先は化け物同士の戦い……人間の出る幕じゃない」
月読がフッと笑みを零すのと同時刻、
『キエアアアアアアアアアア』
脳内に、直接“その音”は叩きつけられた。
月読は耳を抑えながら、屋上の下を見る。
スクランブル交差点では、今も人が行き交っている。しかし、先程とは少し違う。
ぼんやりだが、その空間だけが見えない力に阻まれるように、歪んで見えた。
「なんだ、先生はもう到着済だったのか」
下が『彼』の結界で護られているのなら、こちらは“額縁の外側の輩”について気にせず暴れられる。
飴細工のようなぼんやりと光が反射し合う――その結界が周辺に張り巡らされ、空間そのものが拒絶されている。
そして、その結界の外にあるのは自分達のみ。この屋上だけだ。
『――んま討伐のための結界は、完了……アヤ……討伐……。繰り返す、『
その時、天照の腰元にある無線から雑音交じりの指示の声が小さく響いた。
「簡単に言ってくれるね。お偉方は……現場の苦労も知らないで」
月読がそう肩をすくめて呟いた時、轟音のような叫びが響いた。
『キエアアアアアアアアアア!』
咄嗟に天照が太刀を片手で持ったまま、近くにいた月読の身体を反対側の脇で抱えて飛び上がった。
「あ、あぶねえ」
天照は着地すると同時に呟いた。
先程まで月読が立っていた場所はもう既になくなっていた。
アスファルトは抉られ、フェンスはへし折られ、その残骸が屋上から落下するが――それが下に落ちる前に見えない力に弾かれるように粉々になっていき、行き交う人の肩にその粉がたまに降る程度だ。
「天、休んでいる暇はないようだよ」
月読を降ろした直後、今度は“歌”が二人を襲った。
『契りきな かたみに袖をしぼりつつ――』
その歌を脳が受け取った直後、鋭い影が地面を伝って足元から二人の本体めがけて襲いかかる。
「月読、この歌は……」
「おいおい、
「言っている場合か! 俺には分からねえんだから、答えろよ!」
「ふぅ、まったく、お前は
「そういうお前も、俺がいなかったら、死んでいるけどな!」
目の前で複数の影の鎌が襲い掛かり、それを太刀で応戦する天照の後ろで優雅に佇みながら、月読は息を吐いた。
「まあ、そうだね。お前が戦い、
「あ? なんか言ったか!?」
太刀を振るいながら天照が大声で月読に訊いた。どうやら本当に余裕がないようだ。
よく見ると、天照が立っている場所は攻撃の巻き添えを食らって粉砕している箇所があるが、それが月読に届く事はない。
絶対にこの先には行かせない、という彼の強い意志を感じる。
――まったく、この男のこういう所が、苦手なんだよな。
「“契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末(すゑ)の松山 波越さじとは――”」
月読は詠うように言った。
「
「絶対違うだろ!」
「まあ、多少
「お、おう」
「お前、絶対分かってないだろ……まあいい。まだ完全に浸食されたわけじゃねえ……今回は、お嬢さんが一人。想い人は傍にいないようだからね」
「まあ、そうだな。『
「ああ、そうだね。今は昂った感情に振り回されているだけだけど、そのうち、想い人を浚いに行くだろうよ。本物の、鬼になるために……まあ、こちらとしては、どっちでも構わねえが」
「月読? 何か言ったか?」
「いいや……完全に浸食される前に、何とかしねえとな」
「そうだな!」
明るく言う天照を見て、月読は薄く笑った。
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