アヤシ課のお仕事

シモルカー

序章:契りきな

       一


 東京都・渋谷区―B危険度★3。


 令和二年七月七日、金曜日。時刻、午後九時四十分。


 平成から令和に時代が移り変わって、初めての初夏。

 年号が変わろうと、時代が変わるわけではなく――特に何事もなかったかのように、目の前を人が行き交う。


 スクランブル交差点を、大勢の人が規則正しく歩き、衝突を避けて、何事もなく去っていく――その光景を、「私」は屋上の柵の外側から見つめていた。

 週末の夜となれば、渋谷の町は昼間以上に賑わう。

 飲み歩いている会社帰りのサラリーマンやOL、並んで歩くカップルや補導される事もお構いなしに、むしろ警察を挑発するように遊び歩く未成年の若者。


「私が、ここから飛び降りたら……どんな顔するのかな」


 スーツ姿のOLが空から降ってきたら、きっと驚くだろう。

 高層ビルともなれば、かなりの距離がある。正確には覚えていないが、たしか十階は軽く越す。

 飛び降りたら、きっとアスファルトにぶつかって、肉片が周囲に散らばって――その瞬間、大勢の悲鳴と、スマートフォンのシャッター音が響くだろう。

 そして、一時間もしないうちにネットに拡散されて、ニュースで報道されて。


「もし、そうしたら、少しは、私の事、分かってくれるかな?」


 屋上から飛び降り自殺なんてしたら、報道陣が私の事をたくさん調べるだろう。学生時代から、今に至るまで。家族構成から、友人、そして恋人の事も。

 そうしたら、きっと――私はみんなに同情される。

 会社でパワハラを受けて、部内全体でいじめられて。

そんな精神が不安定な時に、唯一の心のよりどころだった婚約者に、結婚式の準備中に婚約破棄されて。

 しかも、その相手は社内いじめの中心人物。

 学生時代から私をいじめていた、あの女は、一気に悪者にされる。

 ネットで個人情報が拡散されて、連日連夜、知らない人間から誹謗中傷を受ける。

「ふ、ふふっ……」

 その姿を思い浮かべただけで、私は笑みが零れた。

 あの女と私を裏切ったあの男が不幸になるのなら、こんな命――


『ち……ぎり……な……』


 その時だった。ふいに、脳内に歌が浮かんだ。

 アイドルが歌っているような歌とは違う――そうだ、これは和歌だ。

 百人一首のような、昔の歌。

 和歌に詳しくない私はそれがどういう意味か分からない。だけど何故か、その歌に込められた想いが理解出来た。まるで和歌に込められた想いごと文字が体内に入ってくるかのように。

 気付いた時、私は無意識に頭に浮かんだ言葉を口ずさんでいた。


『契りきな――』

 一生大事にするって、私にプロポーズまでしたくせに。

『かたみに袖をしぼりつつ――』

 私がどんなに苦しんでいたか、傍で見ていたくせに!

『末(すゑ)の松山』

 よりにもよって、何で、あの女と……!

『波越さじとは』


「許さない。絶対に、許さない! あんた達だけが幸せになれると思わないで! 幸せなんて一生こないんだから。恨んで、呪って、祟って……! ころし……」


「無粋だね、ああ、無粋だね」


「……っ」

 嫉妬や憎悪でグチャグチャになった心を洗い流すような、優しい声が後ろから響いた。

「こんなに月が美しい夜だというのに、誰も見向きもしないよ……まあ、こんな明るい夜じゃ、それも仕方なしか……お嬢さんも、そうは思いませんか?」

 藍色のスーツを羽織りのように肩にのせた、一人の青年がいた。

 月光が反射して黄金に光る髪に、鳶色の瞳。

 この世のものとは思えない、美しい人。まるで月の化身のように思えた。しかし、どこか妖しい雰囲気もあり、その美貌は人を惑わす――初めて見たのに、何故かそう感じた。


「こんばんは。わなみは、宵町よいまち 月読つくよ。以後お見知りおきを……といっても、多分、すぐ忘れてしまうでしょうが」

 品のある笑みを浮かべながら、彼はゆっくりと私に近付き――そして手を伸ばした。

『!』

 そこで、私は気が付いた。

 この人は、おかしい。

 私は屋上の柵の外側にいて、今まさに飛び降りようとしている。

 しかし彼は、柵を飛び越えた様子もなく、最初からこの場にいた。まるで最初から私がここで自殺するのが分かっていたように――。

「心中察しますよ。そんな思い詰めた顔で、今まさに儚い命を散らそうなんて……きっととても辛い事があったんでしょう。しかし……死んで花実が咲くもんか。君が死んだところで、君が憎んでいる人は、不幸になんてなりませんよ」

『……っ』

 それは、そうかも知れない。

 私が死んだところで、あの女は大笑いをするかも知れない。報道だって、結局は面白そうな方をとる。

 もし死んだ後も辱めを受ける事を考えると、今死ぬべきでは――。

 が、次の瞬間――


『契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末(すゑ)の松山 波越さじとは』


「うっ……頭が、割れる……なに、これ? 音が、脳を……」

 頭の中を和歌が響いた――いや響いたなんてものじゃない。まるで脳全体を詩に埋め尽くされるように、その詩だけが思考を埋めていく。

 ――この歌を詠った人はどういう気持ちだったんだろう。

 ――きっと裏切られて、哀しかったよね。辛かったよね。憎かったよね。恨めしかったよね。


「ナンデ、私達だけが、我慢しなきゃ、イケないのかな……」


 ふいにあの女と男に対する恨みが膨れあがってきた。

 同時に脳内で響く歌が大きくなってくる。まるで私の憎しみに同調するように。

『ソウだ……この詩は……私……私は、詩になる……あの裏切者を……』

 刹那――私の視界を塞ぐように、真っ黒な影が覆い被さった。

 視界だけじゃない。肉体も、意識も、真っ暗な――。


『……っ……ア、キエアアアアアアアアアアアアアアア!』


 意識が完全に途切れる寸前に、墨の匂いがした気がした。

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