57話 往年


 僕は思わず息をのんだ。


 背後に向けた光に照らされて、三つの影が浮かび上がる。だが、その影を作り出す物体についての認識が追い付かない。


 それが人型である事は理解できる。大きさは僕よりも一回り小さく、中学生ぐらいの子供程度のサイズである事も見て取れた。しかし、それはまるで空間の中に立体的な影が生えているような不気味な物であり、背後の廊下の曲がり角に三つ並んでこちらの様子を覗っているような仕草をしていた。


 超常的な存在を目の当たりにしているというのに恐怖心が感じられず、不思議と懐かしさと悲しさが胸に込み上げてくる。感覚がマヒしているのだろうか。


 これが田中や佐藤が警戒していた事で間違いないはずだ。逃げようにも出口を塞ぐように待ち構えられては、僕にどうしようもない。こういう時の為に田中がついて来てくれたというのに、一体どこに行ってしまったのだ?


 影の一つがゆっくりと僕の居る方へ歩き始めた。その足取りはゆっくりとしたもので、まるで何かに恐怖しながらも否応に迫られて近づくようだった。


 幽霊も肝試しをするのだろうか。そして幽霊にとってのオバケ役は僕のような生きた人間なのだろうか。緊張感が無くついついそんな事を考えてしまう。


 やがて影の一つが目の前までやって来た。影は僕の事が見えていないのか、こちらを気にする素振りを見せず、ずかずかと歩いてくる。僕は思わず道を開ける様に廊下の脇へと移動すると、その影が自動販売機に向けて手を伸ばす。


「あっ!」


 その手に握られている物に気づいた僕は思わず声を上げてしまう。その声に呼応するように、影が見上げる形で僕を見る。


 いけない。このままでは影が逃げてしまう。そう思った僕は反射的にその影の伸ばした手を握る。


 金切声のような悲鳴が響く。影は手に持っていた物をその場に落とし、恐ろしい力で僕の握る手を振りほどくと、どこかおぼつかない足取りで二人の仲間が居る所に向けて逃げ去って行った。


「待って!」


 思わず逃げ去る影に声を掛けてしまう。にわかに信じられないが、僕はその影が何であるか完全に理解してしまった。


「気を付けて」


 伝えなければならない事があるのに、今なら何もかも全て無かったことにできるかもしれないのに。突然の事で動転する僕はそんな事しか言えなかった。


 僕は肩をすくめて影が落としたソレを拾い上げる。


「やっぱり……」


 それは失われてしまったはずの土疼柊の部屋の鍵だった。


 一体どういう理屈でこんな現象が起こっているのだろう。薄暗い環境で気づかぬうちにパニックに陥り、錯乱した精神のせいで幻覚でも見ていたのだろうか。ただ目の前の現実として、僕は土疼柊の部屋の鍵を手に入れたのだ。


 為すべきことは為した。また何か異常な事が起こるかもしれない。田中は消えてしまった以上、頼れるのはあの佐藤という女だけになる。早々に彼女が居る階段まで戻らなければ。


 そう思い帰りの道に光を照らすと、廊下の隅に影の一つが残っていた。


 今まで感じる事の無かった恐怖が僕の背中を粟立たせる。仮にこれが幻覚ではなかったとして、それでも彼女がこのタイミングであそこに居るはずがない。


 影は歯をむき出して笑みを浮かべる。真っ黒な影で表情など見えないはずなのに、その仕草をしている事ははっきりと理解できた。


『待ってるからね』


 影は暗闇の中に吸い込まれるように消えていった。


 額に油を含んだ汗が滲むのを感じつつ、恐る恐る来た道を戻り始める。


 影たちの居た廊下に差し掛かった瞬間、背後に気配を感じて咄嗟に振り向く。


「うわぁ! びっくりした」


 そこには間抜けな声を上げる田中が居た。心底驚きつつも、知った顔を見て胸を撫でおろす。


「どこ行ってたんですか?」


「ああん? それはこっちのセリフだ。前に居たと思ったらそこの角を曲がったところで急に消えやがって」


 僕と田中は目を合わせつつ互いの認識が食い違う事を確かめ、ため息をついた。


「どうやらこの場所の力に一杯食わされたみたいだな。身体は無事そうだが、心の方は問題無いか?」


「僕らの仲間で心に問題が無い奴は誰も居ませんでしたよ。カオリちゃんを殺して平気な顔して生きてきた仲間ですから」


「……とりあえずは問題なさそうだな。一旦戻って安全な場所で何があったか教えてくれないか?」


「別に良いですけど、必要な鍵は手に入れましたから、とっとと土疼柊の部屋に行きませんか?」


 僕は手に入れた鍵を田中の目の前に掲げる。


「……何の対策もせずに妙な空間に連れてかれたってのに、無傷で帰って来るどころか目的を達成してくるとはな。お前、何かこの場所を支配している奴に貸しでもあるのか?」


「何の話か全然分かりませんけど、早く戻りましょうよ。また護衛の貴方とはぐれたら嫌ですし」


 恨まれる心当たりはいくらでも有るけれど、幽霊や神様に感謝されるような事をした記憶は無い。僕と田中は、小さな目的を達成できた事に満足して、佐藤の待つ階段へと足早に戻る事にした。

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