47話 垣谷健太


 田中は煙草の煙を燻らせながら、垣谷の実家を見上げていた。


「ここの五階か」


 外観からは年季の入った集合住宅という印象を受ける。事前にクライアントから聞いていた情報では、元々は黒士電気の社宅だった建物らしい。以前は藍川英司もこのマンションに住んでいたと聞いている。


 古い建物だからだろうか、監視カメラの類は見当たらない。田中は安心して、郵便ポストが並べられた入り口から中に入り、薄汚れたコンクリートの階段を昇る。エレベーターなどという気の利いた物は設置されていない。確か七階建て以上の建物にはエレベーターの設置が義務付けられていたように思うが、このマンションは六階建てのためギリギリ対象外という事になる。


 階段と蒸し暑さ、そしてけたたましい蝉時雨で滝のような汗をまとわせながら、何とか五階に辿り着く。途中、踊り場で数人の子供とすれ違ったが、飛び跳ねるように降りていってしまった為、あれが本物の人間の子だったのか、あるいは町にあふれる幽霊だったのかは判断がつかなかった。


 目的の部屋の扉を見たとき、ああ、此処なのだという確信を得る。それは田中が持って生まれた第六感か、もしくは佐藤から知らされている故の先入観か。


 周囲に人の目がない事を確認して、インターホンのボタンを押す。もし両親や本人が出たら、指原真治の名前を出して、様子を見てくるよう頼まれた事に決めていた。怪しさは拭えないが、疑惑は田中と真治に分散されるだろう。


 しかし、その言い訳を使う事はなかった。田中はもう一度ボタンを押したが、結果は変わらない。


 仕方がない。跡が残るからあまり使いたくなかったのだが、ピッキングするしかないだろう。そう考え懐から器具を取り出すが、ふと思い至り器具を戻し、代わりに手袋をはめてドアノブを回し引いてみる。


 扉は力無く開いた。


 幸いな事に、死臭は無くその家庭事にある独特な生活の匂いしか感じられなかった。


 しかし安心はできない。夏場といえども、空調が効いた部屋の中で外傷の無い死体は腐敗まで数日かかる場合もある。田中は素早く室内に入ると鍵を閉める。


「ごめんください。垣谷健太さんはいらっしゃいますか?」


 室内に向け声をかけてみる。電気が付いておらず薄暗い廊下の奥から返事は無く、静寂が田中の心を揺さぶる。


 出かけているのだろうか。最悪のパターンは、今この瞬間に背後の扉が開き家主が帰宅する事だなと楽観的に考えながら、玄関の四隅に札を貼りつける。これで室内に怪異が存在していたとしても、玄関まで逃げて来れれば何とかなるだろう。


 靴を脱いで室内に上がり込み、廊下の奥の扉へと向かう。慎重に周囲を警戒しつつ、中に入ると、田中の予想通りそこはリビングになっていた。


 そして、リビングの光景を目撃した田中は、警戒するべきだと頭では理解しながらも、咄嗟の判断で中に駆け込みソレに声をかける。


「おい、大丈夫か!?」


 テーブルに突っ伏す形で白目を向く中年男性と、カーペットの上で横たわる中年の女性。恐らく垣谷健太の父親と母親だろう。


 父親には頭部に打撲の後があり、母親の首には絞殺の跡と引っ掻き傷――いわゆる吉川線――があった。


 手袋をしているとはいえ、死体に触れるのは決して正しい行為とは言えないだろう。それでも田中は、応急処置の鉄則に則り、肩を叩いて意識の有無を確認する。もちろん意識などあるはずもなく、首元や手首に触れ脈も見てみるがこれも既に失われていた。


 どちらかでも息があれば、救急車を呼んでこの場を離れる事も考えたが、こうなってしまった以上仕方がない。田中は二人に手を合わせ、どうか厄介な悪霊にならず成仏してくれとお願いをしてから、姿の見えない垣谷健太の捜索へと移る。


 もしも怪異の存在を加味しなければ、犯人は健太という事になるだろうか。いや、玄関の鍵が開いていたという事は、外部からの侵入者という可能性も残る。


 田中は自分の痕跡を残さぬよう、最新の注意を払いつつ他の部屋を調べる。トイレやバスルームには何も無く、和室に移動し押し入れの中を確認している最中に、別の部屋から携帯端末の着信音が響く。


逡巡の後、その音の部屋へと移動すると、そこは健太が使っていたと思われる部屋だった。着信音は机の上に無造作に置かれていた携帯端末から鳴っている。財布もその机に残されていたため、容疑者はまだこの室内のどこかに居ると期待が膨らむ。


 ふと携帯端末の画面に目がいき、見覚えのある名前が表示されている事に気づく。


 藍川英司。真治から保護を依頼されていた人物のうちの一人だ。


 田中が電話の相手に気づいた瞬間に、着信音が途絶えてしまう。電話に出ない健太にしびれを切らして、通話を切ってしまったのだろう。


 気を取り直して他の部屋を詳細に調べるが、垣谷健太の姿は何処にも見当たらなかった。どこか隠し部屋のような場所に死体となって収納されている事も考えたが、まさか古いマンションにそんな場所があるとも考えにくい。


 一体どこに消えたのだろうか。携帯や財布が部屋に残されていたという事は、何かのっぴきならない事情があったか、誰かに連れ去られたか。或いは、何かしらの怪異により神隠しにされたのか。父親と母親の死体から、ハラサシが絡んでいない事は確かだろう。となると、羽廣神社の何彁が関係しているのだろうか。


 そんな事を考えていると、再び健太の携帯電話が鳴った。画面を見ると、相手は同じく藍川英司だ。


「……いっそコイツに聞いてみるか」


 本人の置かれている状況というのも気になる所だ。前回は佐藤を待たせている手前、あまり込み入った話はできなかったが、コイツにも指原真治の名前を出せばある程度信用させることはできるだろう。


 意を決して通話ボタンを押す。


「もしもし、健太!」


 電話に出たのは、聞き覚えのある少年の声だった。


「……藍川英二君か?」


「あっ……健太のお父さんですか?」


 なるほど、確かに友人に電話をかけ、聞き覚えの無い大人の声がすればそう考えるのが普通だろう。


「いや、俺は垣谷健太の父親じゃない」


「……どなたですか?」


 猜疑の混じった声。ここまで警戒されるという事は、田中の知らない所で何かあったのかもしれない。


「田中だよ。前に黒猫亭で会っただろ?」


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