36話 怪音声


 僕が目を覚ましたのは、午前十一時を過ぎた辺りだった。ベッドからのそのそと起き上がり、カーテンを開けると窓の外の太陽は既に高く昇っている。クーラーが無ければ、僕はこの部屋で蒸し焼きになっていた事だろう。


 寝起きの気だるさを引きずりながらトイレに向かおうと部屋を出たところで、ひび割れた鏡が目に入り昨夜の出来事を思い出す。


 恐る恐るトイレへ近づき、扉を開ける。中には何も変わった様子は無く、綺麗に掃除された便器が鎮座しているだけだった。


 不気味な見た目の子供の霊が、トイレの中から忽然と姿を消していたように思えたが、アレは何かの見間違いだったのだろうか。


 そういえば、過度なストレスで幻覚を見るようになると聞いた事がある。自覚は無いが、優子と太一が死んだことが受け入れられず、知らず知らずのうちに精神が追い詰められているのかもしれない。


 用を済ませて一階に降りていくと、母親が洗濯物を縁側から物干しざおに吊り下げている所に遭遇した。


「あらあら、随分と良いご身分だ事」


 起床が遅い事を揶揄しての言葉だろう。確かに、夏休みの大学生ほど気楽な身分もそうそう無いだろう。好きな時に寝て起きて、義務として課されるものは何もない。心を苛むのは、せいぜい将来に対する漠然とした不安ぐらいなものだろう。


「おなか空いたんだけど、何か無い?」


「朝ごはんに焼いたベーコンエッグがあるから、温めて食べなさい。お昼ご飯は用意しなくていいわよね?」


「朝昼兼用でいいよ」


 僕はキッチンでラップをかけられたお皿を電子レンジに入れ、爆発しないよう短めの時間をセットする。その間に食パンを一つ取り出してトースターに入れる。冷蔵庫の中に有ったヨーグルトを食べながら、トーストが完成するのを待つ。パンの焼ける良い匂いと共に、チンと軽い音が鳴り、完成したトーストに先に出来上がったベーコンエッグを乗せてかぶりつく。何とも簡単な朝食だが、一人暮らしをしているとこの手の朝食を用意するのは面倒で、母親への感謝の気持ちが沸き上がる。


 食事を終えシンクにお皿を浸け、部屋に戻って携帯端末を手に取る。美麻ちゃんに廃墟探索の件で連絡を入れようかとも考えたが、かつての罪に向き合う行為は気が進まず、退屈しのぎに動画サイトのアプリを開く。


 通知欄に新着動画の投稿を知らせるメッセージが有り、開いてみると健太のチャンネルに新たな楽曲が投稿されていた。


「おっ、あいつ頑張ってるな」


 投稿時間は昨夜の二十二時頃となっており、さっそく通知から動画を開く。しかし、健太の投稿した動画にはタイトルが無く、画面も真っ暗なままシークバーが動き始める。


 何か薄ら寒いものを感じていると、聞こえてきたのは複数の子供が何かを囁き合っている声だった。それは余りにも不明瞭で、意識を集中させても何を言っているのか分かるものではない。次に、ギィと床か何かを踏み込んだようなきしみ音が鳴り、何か物が擦れるようなシュルシュルとした音が聞こえる。


 囁き声が止み、数十秒ほど無音が続く。突然、何か硬くて重い物が落ちたような衝撃音が響き、複数の人々の笑い声が沸き上がる。


 最後は突然ぷつりと終わりを迎える。


 一体これは何なのだろう? 動画が終わった後の操作を促すメニュー画面が表示される中、健太がおかしくなったのかと不安を感じる。


 いや、単に僕が音楽や芸術に詳しくないだけで、これは何かマニアックな音楽のジャンルなのかもしれない。


 僕はSNSアプリを起動させ、健太個人へとメッセージを送る。


『新しい曲聴いたよ。よく分からなかったけど、何なのあれ?』


 メッセージに既読が付かない事を確認して、僕はアプリを閉じる。まだ寝ているのだろうか。先ほど母親に大学生はいいご身分だと嫌味を言われたが、フリーターのバンドマンは昼過ぎまで寝るつもりなんだろう。健太の方がよっぽどいいご身分だ。


「……なんか暑いな」


 僕は空調のリモコンを手に取り、温度を見る。しかし、温度は二十六度に設定されていた。普通なら暑さを感じろどころか、少し肌寒さを感じる設定だ。


 ふと風を感じて視線をその方向に向けると、スライド式のガラス窓が全開になっていた。僕は暑さを感じた理由に対し合理的な原因が判明して安心する。


 窓を閉めようと手を伸ばしたところでおかしな事に気づく。一体どうして窓が開いているのだろう?


 今朝目を覚ました時には、確かに窓は閉まっていた。そしてお父さんは家に居らず、お母さんは一階の縁側で洗濯物を干していた。


 もちろん、僕が朝昼兼用の食事をしている間にお母さんがこの部屋に入って窓を開けた可能性はある。しかし、クーラーも切らずに窓を開けるなんて、そんな電気代の無駄と環境破壊を兼ね備えた愚行をお母さんがするハズがない。


 では一体これはどういう事なのだろうか?


 不可解な現象に不安を抱きつつ、僕は窓を閉め、空調の温度を二十八度に上げようとリモコンに手を伸ばす。


「あっ」


 思わず間の抜けた声が漏れる。


 リモコンを取ろうと手を伸ばした先に、昨夜のトイレで見かけた、あの両目が潰されたような少女の姿があったからだ。

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