35話 回避


 目の前に現れたハラサシは、田中が投げた煙草に惹かれるように斜面へと向かう。そして煙草の前で足を止めると、まるで電池が切れた玩具のように動きを止めた。


 思惑通りの行動に田中は一人ほくそ笑む。しかし、まだ安心はできない。


 死角を利用して姿を隠し、札を使った結界を張り怪異の認識から逃れる。そして自分の煙草を離れた位置に投げる事で、意識をそちらに向けさせる。煙草を調べようとハラサシが距離を取れば、後はこの場所の禁忌が田中を守ってくれるという算段だ。


 マヨイガからの帰り道は、決して振り返ってはならないというもの。その禁忌がハラサシにも有効かどうかは確証が無かったが、動きを止めたという事はハラサシもこの場所の禁忌を理解し、順守しなければならないのだろう。


 問題はここからだ。背後を振り向けない状態でハラサシはどのような行動に出るのだろう?


 振り向かず、後ろに歩いて襲ってくるだろうか。はたまた、超能力のような力で襲ってくるだろうか。いいや、ハラサシの特徴は名前の通り腹を裂くことだ。手に持つ刃物がひとりでに動き、田中の腹部を目掛けて飛んでくるかもしれない。


 田中はハラサシの動きを注意深く観察する。しかし、田中の警戒とは裏腹に、彼女は微動だにせずその場に留まっていた。


 一体あの何を考えているのだろうか。怪異は往々にして無意味な行動を取るものだが、ハラサシは結界を避けて二階から飛び降りるあたり、自身のルール内で合理的な行動を取る存在に思われる。


 夏の熱気に集中力が途切れそうになりながらも、眼前の敵を観察しているうちに、田中はハラサシが考えを察してしまう。


 こいつは、こちらが変わらぬ状況にしびれを切らし、何かしらのアクションを起こすことを待っているのだ。田中がハラサシを観察しているのと同じ様に、ハラサシも視覚以外の五感……いや、もしかすると第六感を駆使して、田中の居場所を探っているのだろう。

 

 境界線に張った結界と自身を同化させている今なら、第六感で認知される可能性は限りなく低いが、それでもこの場を少しでも動けば相手に居場所を悟られてしまうかもしれない。居場所がバレれば、振り向けなくとも後ろ歩きで距離を詰めたり、あの刃物を投擲するなり、やりようはいくらでもあるだろう。


 だが、これは朗報でもある。振り返ることができず、第六感も頼れないこのシチュエーションで、拮抗状態となったのならば、ハラサシは対象の居場所を探るための能力の大半を視覚に頼っていることになる。


 案外ハラサシの肉体は見た目通り、人間と近い構造なのかもしれない。怪異の中には理不尽な能力を備えた存在も多くいるが、今回のような相手ならばやりようはある。


 田中は息を潜めて覚悟を決める。不本意ではあるが、ここからはハラサシとの持久戦だ。本来なら怪異相手に持久戦なんて挑むものではないが、ハラサシの肉体が人間に近い構造ならば、いつか何らかの不具合が出てきても不思議ではない。それまで、ひたすら耐える事がここから生き延びる最も高い方法だろう。


 木陰になっているとはいえ、八月の日差しは容赦なく二人を蒸し焼きにしていた。顔を伝って汗が落ちるのを感じつつ、ハラサシの行動に注力していた。


 一時間ほと経った頃だろうか。田中がこのまま熱中症になるのではと不安を覚え始めると、何かが小刻みに震えるような音がどこからか聞こえてきた。


 その時、ハラサシに動きが生じる。赤黒い汚れのついた衣服のポケットから、何かを取り出して、凝視している。


「……時間か」


 驚いた事に、ハラサシは流暢な人語を介した。低く重いながらも、若い女性の声だ。


 言葉が分かるということは、意志の疎通が可能かもしれない。今回は一方的に襲われたが何故襲うのか、何を目的に行動しているのかを本人の口から聞き出すことができるかもしれない。


 しかし、田中はその期待をすぐに改める。ハラサシは田中の投げた煙草の箱を入念に踏みつけてから、その先の道を進み始めた。


「……性格悪いな、あいつ」


 怪異相手に性格の良し悪しを計るなど、あまりにナンセンスだが、怒りの発露の仕方に人間らしさを感じて思わず呟く。だが、それは対話が難しいタイプの人間が備えた人間らしさだ。きっとあのハラサシと再び顔を合わせたとき、田中は容赦なく腹を割かれる事だろう。


 ハラサシに待ち伏せされている可能性も考慮して、田中はさらに数時間そこで粘った。効果は無かった聖水で渇きを癒やしながら、熱中症対策に聖水を使ったと知れば佐藤にどやされる事は間違いないと苦笑が漏れる。


 流石にもうハラサシもこの場を離れただろう。そう考えて、田中はこの聖域からの出口へと向け、一本道の下り坂を降りていく。


「……ここに出るのか」


 そこは蕎麦屋の裏の湧き水が沸いている岩場だった。来た時にこの道は無かったはずだと思い、振り返って確認しようかとも考えたが、何が起こるか分からない以上、迂闊な事はできない。


 とりあえず町へ戻ろう。そう考えて、蕎麦屋へと戻り車へ乗り込もうと考えた時、田中はある異変に気付く。


「おいおいおい、マジかよ……」


 蕎麦屋の駐車場に止めてあったレンタカーの車。そのタイヤが四輪とも空気が抜けペッタリと地についていたのだ。ナイフで付けられたらような刺し傷が各タイヤに付けられている。


「……性格悪すぎだろ、アイツ」


 田中はパンクしたレンタカーの前でうなだれながら、この先どうしたものかと思考を巡らしていた。

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