34話 逃走


 階段を駆け下りる田中の背後から、首を吊っていた女が足音を立てて駆け寄って来る。散らばっていた武器の一つだろうか、その手にはサバイバルナイフのような鋭利で重々しい刃物を携えていた。


 階段の上からは黒い煤のようなものがパラパラと落ちて来る。嫌な予感がして、口に手を当ててそれを吸い込まないよう注意を払いつつ、できるだけ冷静に頭を働かせようと意識する。


 田中は右ポケットから二枚の札を取り出し、階段と廊下の境目の支柱と壁に貼り付けた。簡易的だが、いわゆる結界だ。部屋や土地の敷居など、場所の役目が変化する境界線はそれ自体が一種の結界となっており、そこに札を貼る事で効果を強める事が出来る。


 結界は霊的な存在が立ち入れない区切りを作るものであり、札や盛り塩を用いる。その対象に善悪は関係が無く、神社の鳥居やしめ縄も神を捕らえる為に作られた結界の一種だ。


 案の定、迫る足音が途絶える。少しだけ安堵しつつ、玄関へと走り、靴を履いて外に出ようと扉を開く。


 ドサッ。田中が外に出た瞬間、何かが上から落ちて来る音がする。


 見るとそこには、首吊りの女が蹲っていた。どうやら田中の貼った結界を突破することを諦め、二階の窓から飛び降りる選択を選んだらしい。見上げると開かれた窓から黒い煤が噴き上げていた。どうやらあの壁中に貼られていた札は、この存在を封じるための物だったらしい。何かしらの方法でその結界を破り、役目を果たせなくなった札の成れの果てが、この黒い煤のようだ。


 田中は首吊りの女に向けて、左ポケットに入れていた小瓶を取り出し、蓋を開けて女に投げつけた。中に入っているのは、フランスで汲んできた聖水だ。聖水はキリスト圏の文化であり、日本にも聖水と近い性質の水はあるが、キリスト圏の聖水の方が悪魔祓いに使われていた分、魔を退ける力は強い。宗派は違えども日本の怪異にも効果がある事は佐藤が実証しており、田中も彼女から貰ったこの聖水を持ち歩くようにしていた。


 しかし、聖水をかけられたら首吊りの女は気にした素振りも見せず立ち上がる。


 結界は効果を発揮したが、魔を祓う聖水は効果が無い。つまり目の前の存在は悪霊や妖怪などではなく、人々を守る神のような存在なのだろうか。


 海底にたゆたう海藻を思わせるボサボサに伸びた髪の隙間から、鋭い眼孔を向ける女と目が合う。刃物を携えている特徴からして、なる程これが話に聞くハラサシかと結論付けた。


 ハラサシは呻きのような声を漏らしながら、田中に向かって歩み始める。


 田中はマヨイガに再び入って結界を張るか、このままハラサシを振り切って山を下るかを逡巡した末、下山する選択を選ぶ。マヨイガの中に戻ったところで、ただ袋のネズミになるだけだ。怪異相手に根競べをして勝てるとは思えなかったし、何より死体のある屋敷に閉じこもるなんて、まともな神経ではとても耐えられない。


 ハラサシが刃物を構えながら駆け出す。華奢な体躯だが、想像以上に足は速い。


 聖水は効果がなかったし、札による結界も境界線が無い空間では無意味だ。田中は手頃な石を広い、ハラサシの頭部目掛けて勢い良く投げつける。


 額にその石が当たると、ハラサシは足を止め大きく仰け反った。どうやら物理的な攻撃は有効らしい。こんな事なら、警棒やスタンガンでも持ってくれば良かった。


 田中はその隙に下山する道へと入る。シダ科や蔓科の植物だろうか、左右を田中の腰下まで届く背の高い雑草が覆い尽くした獣道だ。


 後ろからはハラサシが追ってきているのだろう、植物を蹴るような足音が近づいてくる。


 怪異に追われている時に最も危険なのはパニックになることだ。混乱した状態に陥ると冷静な判断ができず、慌てて転倒したり、逃れる糸口を見逃したりする。ゆえに多くの怪異は、人間を恐怖に陥らせて思考する力を削ぐのだ。


 思いのほかハラサシの足が速いと感じ、振り返って相手との距離を測ろうと思い立った瞬間、嫌な感覚に襲われて寒気立つ。


 ああ、そうか。この道は振り返ってはならない禁忌の道だったか。田中はクライアントの言葉を思い出す。


 除霊用の手鏡で背後を探ろうか。いや、後ろの景色を眼に写すだけで禁忌に触れるのならそれもアウトだ。


 しかし、振り向かずとも音で距離が詰められていることを悟ってしまう。このままではいずれ追いつかれてしまうだろう。


 焦燥感に駆られながら、対処方法を考えていると、道の先に木々が密集し、さらにその先が段差になっている箇所を発見する。


(クソ! 一か八かやってみるか)


 田中は木の陰に身が隠れると、段差の下にうずくまり自身に札を貼り付ける。何もない場所では結界を張っても効力は薄いが、樹木や段差などは僅かながら境界線としての役割を果たす。


 次に、持っていた煙草の箱を少し先の斜面へと投げる。もちろん、この行為も考えあっての事だが、田中はうまく事が運ぶか不安に駆られていた。


 そして、ハラサシはすぐに背後から姿を現した。


 

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