32話 マヨイガ
真治との通話を終えた田中は、車で国蒔郷土資料館のそばを通り抜ける。この辺りも夜はれいの子供達で溢れていた。時計に目をやると、時刻は午前十一時の少し前。できる事なら、日が暮れるまでには仕事を終えて戻りたいところだ。
「それにしても、あの蕎麦屋の裏に異界と繋がる道があるとはな」
佐藤はマズイと酷評していた蕎麦屋だが、田中は決してそんな印象を受けなかった。確かに値段は高いと感じたが、長年の経験を積んだ職人が山中で店を開いているのは、きっと湿度や温度に気を使っての事だろう。水に拘るあまり、湧き水を利用しやすい場所を選んだ事も考えられる。それほどの逸品が、マズイ訳が無いだろう。佐藤は付き合いの長い姉弟子だが、まさかバカ舌だったとは知らなかった。
参道を上がったところに、件の蕎麦屋があった。駐車場に車を停め、店内に入る。
「お、旦那。また来てくれたのか!」
厨房で新聞を読んでいた恰幅の良い大将が、田中の顔を覚えていた。田中は「ええ、まあ」と愛想笑いをしてカウンターに座る。
食欲は無かったが、並のざるそばを注文しつつ、本題を切り出す。
「なあ、ちょっと食後にその辺りを散策したいんだが、車を停めておいても良いか?」
「ああん? どうせ客なんて来やしないから構わねぇけど、なんだアンタ、指原さんの所の関係者か?」
思いがけない反応に、田中は答えに窮する。関係があると言えばあるが、きっとこの大将が思い浮かべるような関係ではないだろう。
「まあ、一応は関係者だな」
「そうか。連中、俺の蕎麦は食わないくせに、駐車場だけ貸せとぬかしやがるが、旦那は違うんだな。この店舗を借りてる手前、断るわけにはいかないが、どうにも来る連中に一貫性が無いって言うか……おたくら、ここに何しに来てるんで?」
再び答えに窮してしまう。
「……俺のほかにどんな奴が来るんだ?」
「うーん……高級車で乗り付ける高飛車な連中かと思えば、律儀に店前に自転車を停めさせてくださいと言いに来る女子高生……は最近見てないな。代わりについ先日、タクシーでやって来た謎の美女も見たな。んで、金髪の見るからに筋者のにーちゃんだな」
どうやら、マヨイガには随分と多種多様な人々が訪れているらしい。高級車を乗り回してる国蒔の人間といえば、指原家の本家連中だろう。だが、女子高生とは一体何者だろうか。謎の美女は情報量が少なすぎる。
だが、筋者の人間も出入りしているのは驚きだ。もしかすると、指原家は地元のヤクザと繋がりがあるのかもしれない。
やがて運ばれてきた蕎麦を手早く食し、会計を済ませて店を出る。店主のご厚意に甘えて、車は停めたままだ。これで、指原真治の姉を確保した後に、すぐに車で運び出すことができる。
蕎麦屋の裏手に回ると、真治が言っていた小道はすぐに発見できた。獣道のように細い道だが、足場が踏み固められている事からも頻繁に人が通っている事が察せられた。
「……虫が多そうだな」
田中はしばらくその道を歩いていくと、岩肌から伸びた竹筒を伝い水が流れる一画を発見する。
「ここか」
水脈の上の岩肌には「彁」の文字が意味ありげに掘られている。佐藤はこの文字に意味は無いと言っていたが、ご神体の件といい何かの役割がある文字なのではないだろうか。
湧き出た水は地を伝い、どこかに流れているらしい。この辺りに川は見当たらなかったが、地下にでも流れ出ているのだろうか。
田中は手を軽く洗い、両手を器にして湧き水を受け止める。水量は決して多くは無いが、数秒で手の平が湧き水でいっぱいになる。それを口に含んで、道の先へと急ぐ。
地蔵のいるという祠は、水場からすぐの所だった。少し開けた空間に、木製の犬小屋のようなサイズの祠がぽつりと立っている。
「っ!」
その地蔵を見た時、田中は思わず驚いて口に含んだ水を飲み込んでしまいそうになる。
その地蔵は体こそ一般的な物だが、その顔が逆三角の形をしていた。まるでこれでは、国蒔に伝わる
そしてもう一つ、その地蔵には重要な問題があった。
(顔の一部が濡れている?)
マヨイガへ入るための儀式とは、この祠の周りを八回周回して、この地蔵に口の中の水を吐きかける事だ。今日は雨が降ったわけでもないし、周囲に地蔵に水が掛かりそうな要素は見受けられない。つまり、この地蔵の顔が濡れている理由はただ一つ。先客が居るという事だ。
(まあ、この手順を踏んでいるという事は、相手は人間だろう。きっと話せば分かるはずだ)
田中は屈んで地蔵に手を合わせ、祠の周りを回り、目を瞑って水を吐きかける。ぐるりと目が回る感覚に陥るが、これは単純に祠の周りでぐるぐる回っていたせいではないかと、心の中で憤る。
「……成功したのか?」
恐る恐る目を開ける。すると驚いたことに、目の前にあるはずの祠が忽然と姿を消していた。
そして背後を見ると、そこには武家屋敷を思わせる二階建ての建物が出現していた。
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