21話 家弓優子


「……はぁ、やっと終わったわ。急患無くてよかった」


 優子は病院の一室で書類の整理に忙殺されていた。本来であれば昼間の業務のはずだが、優子が宿直の時は決まって昼間の業務の一部が残され、夜に回される。そして急患が入り、その業務が終わらせられないと、翌朝に手酷い叱責をくらうのだ。


 途中、患者のカルテに関する内容で医者の判断を仰がなければならない場面があり、当直医師の部屋を訪れたが、若手のその医者はのんきに携帯ゲームで遊んでいた。こっちは忙しいというのに、まったくもって腹立たしい。暇なら手伝えと言ってやりたいが、文句を言えばその医者からお局に報告が上がり、また態度が悪いだのと小言を貰う。


 結局この病院に居る限り、この苦しみは続くのだ。


「転職しようかな」


 太一は優子に環境を変える事を進めていた。けれど、職場を変えた所でこの国蒔の企業では、どこでもあのお局と同じように、自分の事を良く思わない人間が居るだろう。狭い世界がゆえに、過去の自分から逃れる事が出来ない。それが田舎というものなのだろうか。


 いっその事、家の事を考えず外の世界に出てしまおうか。いや、無理だ。家弓の家を捨てることはできない。古い因習に囚われていることは理解しているが、それでも自分には子供を作り国蒔の守り人を次の世代へと繋ぐ使命がある。


 時計を見ると、時刻は二十二時を少し過ぎていた。優子は慌ててチェックリストを挟んだバインダーを持って、部屋から出る。見回りの時間だ。


 見回りは看護師ごとにフロアが割り振られ、戸締まりが行われているかを見たり、患者さんが徘徊していないかを確認したりする。優子の担当は六階の一区画だった。


 人の気配を感じて、優子は溜め息をつきつつ、廊下の角を曲がる。


 案の定、二人の老人が休憩スペースで談笑していた。


「嘉山さん、黒田さん。消灯時間過ぎてますからね!」


 優子は声を潜めながらも語尾を強めて言う。二人はいつも消灯時間後に部屋を抜け出し、ここで取り留めのない話をしているのだ。

 

「おお、優子ちゃん。ちょうど良かったよ。こいつ、とうとうボケたみたいなんだ」


「バカな事言うな! 本当に見たんだって!」


「……何を見たんですか?」


「女の子だよ。さっきそこを歩いて行ったんだ!」


 めんどくさそうな話だ。優子は憂鬱な気持ちを振り切って答える。


「女の子の入院患者は居ませんよ? 見間違いじゃあ……」


「いいや、この目で見たよ。確かに女の子が居たんだ」


「ほらな。こいつ、頭だけはしっかりしていると思ったんだが、とうとうダメになっちまったらしい。なぁ、聞いただろ、女の子がこの病院に入院していないってさ」


 嘉山は黒田の肩に手を置いて、小馬鹿にしたように笑う。黒田はその手を払いのけ、嘉山に食って掛かる。


「じゃあ何だ? ワシが見たのは幽霊とでも言うのか?」


「おう、その幽霊がお迎えなんじゃねぇのか?」


 黒田は「ふざけるな!」と声を荒げる。


「あんな孫より若い小娘の迎えなんぞ、願い下げだ。ワシの迎えはボンキュな熟女と決まっておる!」


「はいはい。ふざけてないで、二人とも早く寝てください。夜更かしは体に毒ですよ」


 嘉山ははいはいと笑いながら、ブツブツと文句を繰り返す黒田を連れて病室に帰っていく。


 優子は黒田の言葉を反芻しつつ、見回り業務を再開させる。


 何も黒田は幽霊を見たのだと優子は考えていない。仕事で関わる中での判断にはなるが、あの人の頭は痴呆とは程遠いところにある。


 以前、病院で遊んでいた子供が倉庫で眠ってしまい、そのまま閉じ込められる事件があったらしい。黒田が本当に子供を見たというのなら、今回も似たような事が起こっているのかもしれない。後で警備室に報告しておこう。


 その後の見回り業務は滞りなく進んでいった。そう考えていたが、最後の区画で問題が起こる。


「あっ!」


 非常階段の階段をつなぐ扉の前に、黒田が言っていた女の子が立っていた。優子に背を向けている為、顔を見る事はできない。白いワンピースを着て、切りそろえられたおかっぱ頭。どこにでも居るような普通の女の子だが、夜の病院に患者服ではない子供の存在は異色を放っている。


「ねぇ、君。どうしたのかな?」


 しかし、子供は呼びかけに応じず、背を向けたまま微動だにしない。不気味に思いながらも、このまま放置する事も出来ない。鍵が掛かっているとはいえ、病院には危険な物がある部屋も多い。優子はゆっくりとその子供に近づく。


「パパかママとはぐれちゃったの?」


 一歩二歩と距離が縮まる毎に、なぜか足が重くなる。理由は単純な話で、恐怖心を抱き始めていたからだ。


「ほら、お姉さんと一緒に行こう?」


 とりあえずこの子を目の届く所に連れて行こう。その後は警察に連絡して保護してもらえばいい。そう考えて子供に手を伸ばす。


 すると子供は振り返り、優子の伸ばした腕を掴む。


「えっ? なかにしか……」


 非常階段への扉がひとりでに開く。外の生暖かい空気が室内に流れ込む。


 子供の力とは思えない強さで握られ、優子は思わず悲鳴を上げる。持っていたチェックリストを挟んだバインダーを思わず落とす。


 子供はニカッと不気味に頬を吊り上げると、優子の腕を掴んだまま鉄板製の非常階段の踊り場へと出る。優子はバランスを崩し、半ば引きづられる形で連れ出される。


 狂乱の叫び声を上げながら、必死に子供の腕から逃れようともがく。しかし、叫べども殴れども子供の動きは止まらない。


 子供は踊り場の手すりに触れる。太い鉄棒を組み合わせた手すりは、触れられた瞬間に腐食してボロボロと崩れ落ちる。


 優子はこれから起こる事を察し、喉が引き裂かれんばかりの悲鳴を叫ぶ。誰か助けは来ないのか、それを無意識で期待しながらも、物語の様に都合よく助けは来ず。


 そして、腐食した手すりの隙間から子供は暗闇に向け身を投げる。下はコンクリートの駐車場。優子の腕は掴まれたまま。


 悲鳴は夜の闇に吸い込まれ、やがて鈍い音と共に途絶える。空気が澄んで星空が綺麗な夜の出来事だった。

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