20話 家弓夫妻


 太一が仕事を終え家に帰ると、優子が寝室のドレッサーで出かけ支度をしていた。香水や化粧品の匂いが鼻につく。病院で働く彼女は今夜宿直であり、これから出勤するのであった。


「あ、おかえりー。今日は早かったね」


「おう、ただいま。病院まで送って行ってやろうか?」


「ううん、大丈夫。アンタも疲れてるでしょ? 豆腐の賞味期限が明日までだったから、さっき麻婆豆腐作ったの。冷蔵庫の中に入れてあるから、温めて食べて頂戴。それに、今晩のナイター見たいんでしょ? ビールでも飲んでゆっくりしてなさいよ」


 確かに今日は太一が応援している球団の試合があった。しかし、優子が出勤を前に努めて明るく振る舞っている様に、太一は心を痛める。


「なあ、あんまり度が過ぎるようなら、ちゃんと労基に言うんだぞ。なんなら市外の病院に移ってもいい。ほら、黒士電気なら全国に営業所有るし、異動届も通りやすいから別居する必要もねぇんだ」


「あはは……私が国蒔を離れられるわけ無いじゃない。それに、今日は宿直だから嫌なババアは居ないし。でも、ありがとう。昨日楽しんだ分、今日は仕事頑張るわよ」


 優子は度々、泣きはらした顔で帰宅する事があった。太一は始め、社会人としての洗礼を受けたのだと思い、自分も初めは苦労したと励ましていたが、詳しく話を聞いてみるとどうやらそれだけが理由ではないらしい。


 職場である国蒔総合病院は、国蒔が発展していく過程で外様が建てた病院だ。その為、従業員が国蒔市だけで集められる訳が無く、多くの外様を受け入れる事になる。


 そして、職を求めて集まった外様の子供達は、太一や優子の同級生になる。太一は人の事を言える立場ではないが、優子は当時、随分とやんちゃをしていた。要は、外様としてこの町に入ってきた子供達を不登校に追い込んで遊んでいたのだ。


 当時、優子の玩具だった女子に名野川なのかわという少女が居た。気の弱い名野川は優子に標的にされると、わずか一週間で学校に来れなくなってしまった。当時の優子は最短記録と誇っていたから、太一の記憶にも残っている。


 不幸な事に、優子の職場のお局は名野川の母親だった。どうやら、優子はその名野川とその取り巻きから壮絶なパワハラを受けているらしい。いい大人が娘の仇討ちに優子をいじめるなど、太一からすれば言語道断だ。


 先にいじめを行っていたのは優子なのだから、自業自得という考えもあるかもしれない。しかし、優子と人生を共にすると決めた太一は、無条件に彼女の味方であろうと心に誓っていた。ゆえに、その理屈は太一の中で通用せず、その名野川というお局は、殺してやりたいほど憎い相手だった。


「夜中でも嫌な事があったら電話して来いよ。病院に殴りこんでやる」


「そんな事したら、より一層面倒な事になるわよ。それに、アンタも明日仕事でしょ? ほら、せっかく『結婚した男性が欲しい物ランキング一位』の自分の時間なんだから、楽しみなさいな」


「どこ調べだよ、それ」


 話しながら化粧を終えた優子は、携帯や財布などをハンドバックに入れ、玄関へと向かう。


「それじゃあ、行ってくるから」


「……おう、行ってらっしゃい」


 太一は行ってらっしゃいのキスをして、優子を見送った。自分にできる事なんて、送り迎えぐらいしかできないのだから、せめてそれぐらいは手伝わせてほしいと思ったが、きっと旦那を職場に近づけたくないのだろう。


 独りになったマンションの部屋は静かで、どこか寂しい。太一はキッチンに向かい、早速冷蔵庫を開けた。


 優子の言っていた麻婆豆腐はすぐに分かった。お皿に盛り付けラップをかけ、その上に付箋紙でメッセージが書かれている。


『今日もお仕事お疲れ様!』


 愛らしい丸文字に太一はいたたまれなくなる。自分の方が大変だというのに、人のことを気にかけ健気に振る舞ってくれる。まったくもって、自分には過ぎた伴侶だと太一は思う。そんな優子を傷つける相手の事を、許すことはできない。


「まあ、俺にできる事は限られてるけどな」


 太一は麻婆豆腐を温め、ご飯を盛ってビールも用意する。テレビを付けると、既にゲームは始まっていたが、一回表は無失点で抑えたようだ。


 野球を横目で見ながら手早く食事を済ませ、残ったビールを片手にリビングの片隅の本棚から一冊の古い本を取り出す。表紙の無い紐綴じの古書は、矢弓家に伝わる陰祭の手順を纏めたものだった。


 矢弓のお義父さんに次期当主は君だからと渡されたが、そのときお義父さん自身ほとんど読んだことがないと言っていた。儀式の手順は口伝でまとめられており、この本は読む必要が無かったのだと言う。


 しかし、もう優子の実家の方では陰祭の準備が進められているらしい。優子の負担を少しでも軽くするために、手元にある資料は読み込んでおきたかった。


 太一のやる気とは裏腹に、古文書の読解は難航する。当然と言えば当然だが、書かれている文字は馴染の無い言葉ばかりで、かろうじて認識できるのは図解の部分のみ。


「まあ、儀式の手順なんて家弓のお義父さんから直接教われば良いか」


 太一が応援している球団が、ツーアウト満塁という山場でデッドボールの押し出しで一点先取する。幸先は良いがまだ油断ならない。案の定、次の打席は呆気なく三振を取られ、攻守交替となる。


「……何だこれ?」


 何の気なしにめくったページに描かれていた図を見て、太一は声を漏らす。


「刀を持った老婆……まさかこれ、ハラサシか? いや、そうなると変だ。風ちゃんの話が食い違う」


 太一は馴れない古語を必死に解読する。時間をかけて想像力を働かせ、読めない部分を補完する。


「山に棲む何か……帰ってきた童……これじゃあまるで、ハラサシが国蒔を護ってきたみたいじゃないか」


 違う、逆に考えるんだ。ハラサシは侵略者なんだ。その目的は『皆殺し』。他の侵略者を護るために。


 それなら風ちゃんの話も頷ける。そして、ハラサシは敗れたんだ。だから妖怪になった。生贄は口減らしの建前なんかじゃない。口減らしが生贄の建前なんだ。


 そして生贄に子供を使ってはならない。なぜなら危険だから。無邪気な子供たちは、仲間を連れて帰ってきてしまうのだ。それを昔の人は知らなかったのか、知らされてなかったのか。


 ともかく、代替えとして作られたのが土疼柊だ。これはきっと間違いない。


 だが、太一の頭に数々の疑問が生じる。


 じゃあ羽廣家と指原家の関係は?


 この事を真治は知っているのか?


 真治の姉貴は今どこに居るのか?


 羽廣神社は一体何を奉っている?


 美麻の言う山はこれの事なのか?


 土疼柊とは何を象った物なのか?


 黒士電気地下のあの部屋は一体?


 今この文書を後ろからのぞき込んでるのは何者なのか?


 最後の問は、硬直する体を無理やり捻り、答えを得ることができた。


 


 玄関のチャイムが鳴り、太一は目を覚ます。時計に目をやると、二十一時を少しまわった時刻を示していた。どうやら数時間ほど眠ってしまっていたらしい。テレビでは、太一が応援する球団が大差で敗北した事を報道していた。


 何か重要な事に気が付いた気がする。しかし、何を考えて何に気づいたのかを思い出せない。たったビール一杯で酔ってしまったのだろうか。少し疲れ気味なのかもしれない。


 チャイムがもう一度鳴った。まだ重い頭に手を当てながら、玄関へと足を進める。こんな時間に一体誰が来たというのだろうか。


「どちら様?」


 太一は玄関を開ける。もし相手が誰であっても、太一の体格と威圧感の前では滅多な事をすることはできない。その事を経験則から理解しているからこそ、不用心にも来訪者を確認せずに、玄関の扉を開けてしまった。

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