第36話 お願いを破った奴はいない

 なるほど、と勇気は小さく、そしてはっきりと呟く。

 短く二度頷き、その後で一度大きく。そのまま顔を下に向けたまま大きく息を吐いた。

 そして、


「くだらねぇ。帰るわ」


 床に向かってそう吐き捨てると、勇気は立ち上がり、女性に背を向ける。

 襖に手をかけようとした時、体が止まる。正確には勇気のジャケットの裾を紗希が思いっきり握っていたため上半身が置いていかれて届かなかった。

 畳は思いの外よく滑る。そのせいで勇気は派手な音を撒き散らし盛大に尻もちをつく羽目になっていた。


「いっ──」


 声が上手く出せない。吐いた息が吸えない。

 悶える勇気を尻目に、


「何処へ行こうとしている?」


 この、ゴリラ娘がァ……

 なにが表では普通の人間だよ、と苦悶の表情を浮かべながら息を整える。

 目尻に浮かんだ水滴を乱暴に拭うと、


「……少しはおっさんをいたわれ。無理がきく歳じゃないんだよ」


「そんなことよりさっきのことはどういう意味か説明しろ」


「そうね、私も聞きたいわ」


 味方がいねぇ、と勇気は天を仰ぐ。

 言うつもりはなかった。必要がないし、変なことを言ってこじれる可能性があると思えば言いよどむのも当然であり、何より解説することが恥ずかしく、そして面倒だった。


「……どーうしても言わなきゃダメか?」


「駄目よ」


 女性は瞳の奥を光らせながらそう言い切る。

 勇気はわざとらしく舌打ちする。またぐっと裾を引っ張られ首が詰まった。

 暴力が何でも解決できるとでも思っているのか、と不安になる。どういう教育をしているのか女性をにらむが笑っていなされるだけであった。

 眉間にしわを寄せて、下唇を噛んでいた勇気だったが観念したのか吐息を漏らして、


「やり方がせこいんだよ。実の中に虚を混ぜるのも、無駄に威圧してイニシアチブを握ろうとするところも。大物だって聞いてたから話に付き合っていたがこんなもんなら付き合うだけ時間の無駄だ」


「信じていないのか?」


「話自体は信じてるよ。嘘は言っていないのはわかってる。だけどな、力あるもんってのはそういうこすい真似して利益の上澄みだけかっさらうような真似しないもんなんだよ。する必要がないんだ、正攻法で真っ向から叩き潰せば最短で最大利益を得られるようにできてるんだから」


 そして勇気は女性を指さす。


「この女が言っているのは全部些事なんだよ。そうなったらいいな、そうならずとも自分の立場は揺るがない。人の命でやるゲームなのさ」


「母さんはそんなことをしないっ!」


 勢いのある言葉と同時に紗希は力を込める。

 今すぐ殴りかかりそうな雰囲気に勇気は負けじと顔を近づけると、


「いいか? 妄信的になるのは勝手だがそれに他人を巻き込むな。沈むんだったら自分一人で沈んでいきな」


「黙れっ!」


「黙るのはあなたよ、紗希」


 話を遮ったのは女性であった。

 いまだ浮かべている笑みに陰りはなく、こくりといちど頷くと、


「そうね、あなたの言っていることは全面的に正しいわ」


 そこで一呼吸置いてから女性は向かいの襖に目をやる。

 そして、


「だから言ったでしょう? こんなことしても彼は協力なんてしてくれないって」


「はいはい。あー賭けは負けじゃん」


 女性の視線の先から声がする。聞き覚えのあるその声に二人も顔を上げて、襖を見る。


「メメ子……」


「やっほ」


 襖を開けて現れたのは声の通りの少女であった。趣味の悪いバッグに着崩した制服姿、しかし傷は無い。

 手を振りながら入室するメメ子はすぐのところで正座をする。それを見終えた女性は勇気に目を向けると、


「というわけでね、あなたが協力するかどうかで賭けていたの。もちろん私は乗らないほうに賭けたわ」


 誇らしげに浮かべる笑みを見て、メメ子は口を尖らせていた。


「ふーん。ねぇねぇ、決め手は何だったの?」


「簡単なことだ、明らかに人選が悪い」


 宗教家でも政治家でも詐欺師でも、アイドルや芸人を使ってもいい。起用できる人材なら数多といるはずなのにわざわざ向いていない人間を選ぶのは酔狂という他ない。


「なるほど」


 その答えにメメ子は納得したように首を振る。

 その態度に含むところがない訳では無いが勇気は鼻を鳴らすと、


「そもそもどう考えても乗るわけねぇだろ。ただの厄介事じゃねぇか。俺は慈善家じゃねぇんだぞ?」


「だからだよ」


「は?」


 どういう意味だ?

 メメ子はある程度の確信をその表情に滲ませていた。

 ただのブラフかもしれない。が、妙に引っ掛かりを覚えて座りが悪い。

 しかし、理詰めで考えれば勇気を選ぶ理由がない。本人の能力もやる気もどん底を下回っている。それが分からないはずがない。

 と、考えたところで勇気は一瞬大きく目を開き、すぐに閉じると眉間を指で抑えていた。


「……あー、くそ、最悪だ」


「どうした?」


 突然勝手に悪態をついた勇気に、怪訝そうな顔で紗希が尋ねていた。


「思い出しただけだよ。お前の言葉を」


 そこで言葉を区切る。

 関係なかったのだ、能力も意欲も。舞台上にはいくらでも配役のある人がいてただ駒を追加しただけに過ぎない。

 自分で言ったのだ、これはゲームだと。問題が発生していることは事実でもそれで世の中が本当にどうにかなるなんてことは無い。既に誰かが解決に向けて歩み始めている中で戯れに一石を投じる、それ以上の意味が無いのだから。


。つまりどうあがいてもやることになるんだよ。そうしないと何かしら大損こくことが決まっているんだろうな」

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