第32話 娘との話

「しかし……」


 紗希は少し神妙な面持ちになり、小さく頷いていた。

 その何か納得したような表情に、


「どうかしたのか?」


「いや、私も十年より前の記憶がないんだ。まあその時生まれたのだから当然ではあるんだが、肉体は十歳前後のものだったからもしかしたらな、と。その咲夜という子供の体である可能性もあるだろうと思ってな」


「……普通そういうのって気になるもんじゃないのか?」


 勇気の言葉に紗希はただ笑みを浮かべていた。

 そして、


「母さんがどうにかしたんだろう」


「……皆それで片づけるがそんなもんなのか?」


 怪訝そうな表情を向ける勇気に、ふっと笑った紗希はそんなもんさ、と答える。

 ……何でもありだな。

 そんな感想を思い浮かべていると、


「それにもう一つ」


 一言つぶやくと、上着を持ち上げていた。

 白い、若さのある肌が勇気の目の前にあった。薄く膨らんだ胸が見えそうになっていたため、


「やめなさい、はしたない」


 諫める言葉に首を振りながら、


「そうじゃなくて、こことここ」


 持ち上げた服を片手で押さえながら見えている腹を指さしていく。

 薄くはなっているが、皮膚がよれてただれたであろう傷跡がはっきりとある。円形の特徴的な痕に勇気は息をのむ。

 その様子に短く息を吐いた紗希は装いを正すと、


「銃弾の痕、だろう?」


「……」


 言葉に詰まり、勇気はただ眼を瞑ることしかできなかった。

 紗希の顔を直視できない。頭の中には後悔の念が沸き上がり、奥歯がなるほど噛みしめていた。

 それでも紗希は明るく、


「しかし、そうなるとナイト役にしてはずいぶん役立たずだったことになるな」


「……うっせ」


 その通りだよ……

 自分の不甲斐なさが時を越えて追いかけてきている事実に、向き合うには時間が必要だった。

 今何か話せばすべて言い訳になってしまいそうで、勇気は押し黙っていた。そのためしばらく沈黙が続く。

 それを細い声で破ったのは紗希だった。


「ありがとう」


 ……咲夜?

 ガツンと脳を揺さぶられる感覚に目の奥が熱くなる。

 見上げる先にある紗希の顔に変わりはないはずなのに、記憶の奥に閉じ込めていたあの少女の滅多に見せないはにかむ笑顔が被って見えていた。


「……何が」


 感謝の言葉の意味が分からず、勇気は震える声で聞き返していた。

 不思議なことにそれは紗希も同様で、一瞬首をかしげると、


「知らん」


「は?」


 わけがわからん、と眉間にしわを寄せると、紗希はそこを小突く。


「記憶がないといっても脳みそが作り替わっているわけでもないしな。体の元の持ち主がそう言いたいってなったんじゃないかな」


「……感動的な話なのか適当なのか、まったく」


「はっはっは。私は私、それ以上でもそれ以下でもないからな。過去の体のことなんて知らんし興味も配慮もないわ」


 紗希は豪胆に言ってのける。

 それでも勇気は少しだけ胸の中の澱が溶けたような気持ちになっていた。

 死んだ人間は元には戻らない。その死体を利用している紗希を怒る気にはなれない。その資格など勇気にはなかった。

 それでも気分は良くなかった。が、

 ……そこで生きているんだな。

 感傷だと言えばその通りなのかもしれない。実際はどれほど意識が残っているのか、影響があるのかは分からないがあの全方位敵しかいなかった環境よりはましだろう。


『あんな家に生まれなければよかった』


 彼女の口癖となってしまっていた言葉を思い出す。あんな小さな子の口から出る言葉としては不釣り合いだが、今となってはそれも仕方ないと思えた。

 その面影を残す女性は勇気を見ながら鼻で笑う。


「ちなみに、お前のことを父親だと認めんからな。どんな事情があろうと、今まで一度もあった記憶のない男を父と呼ぶ気はない」


「そりゃ賛成だ。こっちも急に出てきた反抗期の女を娘と呼ぶのはどうかと思ってたところだ」


 軽口の応酬に勇気は力を抜く。

 もう何もしたくない気分だった。まだ全身は痛むし、埃と冷や汗でいたるところが気持ち悪い。心理的なストレスから解放されたせいかどっと疲れが出てきていた。

 そう思っていると、徐々に視界が暗くなってきていた。目が細くなっているせいだと気づいて、それでも抗いがたい欲求に抵抗する気も失われてきている。

 それに気づいたのか、とんっと頭に掌が置かれ、勇気は目を開く。


「寝るなよ……体調は?」


「……まぁまぁだ」


 気合の入っていない声で勇気は返事をする。そして両手をついて上体を起こすと、ゆっくりと頭を横に振るう。

 本調子ではないが、まぁいいか。

 軽く体を動かし、状態を確認する。壁に叩きつけられたにしては骨に異常がないのは幸いだった。

 紗希はひとしきり待ってから、


「では行くか。母のもとへ」


「……勝負は俺の負けじゃなかったか?」


 その質問に紗希は自身の裾を指さす。

 清潔とは言えない地べたに座っているため、白く埃のついたスラックスパンツのなかで茶色い汚れが目に付く。室内ではあまり見ない色に、


「お前が格好悪く気絶した後にな。あまりのことにあっけにとられていたら、その足の裏がぶつかっていたのさ」


「それは……ありなのか?」


 たまたま、偶然だ。ただの事故で攻撃にもなっていない。そして、そんな甘い判定を認めるとも思えない。

 そう考えていた勇気に、紗希は首を縦に振る。


「ありに決まっているだろう。運も実力、条件を出したのは私だからな。それを認めないなんて格好悪い真似できやしないだろう」


 誇らしげに胸を張る。そのすがすがしい態度に勇気は悪い奴にだまされたりしないか不安を覚える。

 ……いや、悪い奴は俺か。

 

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