第29話 激昂する
「しらを切るか!」
怒号とともに勇気の顎が持ち上がる。ぬめりと熱さが喉から胸へと一筋流れるのを感じる。
脳髄に走る痛みで冷静さを取り戻した勇気は大きく唾を飲み込んでから、
「……知らないものは知らないとしか言いようがないだろ。つうかそんなに気になるなら母親の方に聞けよ」
「黙れ!」
「はっ、癇癪持ちかよ。お母さんに守ってもらえなきゃ不安か?」
「黙れといった!」
直後、枝ではなく振りかぶった紗希の拳が頬に突き刺さる。鈍い音が脳内を乱反射して視界の中に星が混じるが、勇気は表情をゆがませただけだった。
「お、お兄さん。あんまり喧嘩を売らないほうがいいと思うよ?」
距離を置いたところからメメ子が臆したように言う。
それほどかよ……
勇気は心中でぼやく。デタラメとも言える力を持つメメ子ですらへりくだる相手ということだ。相手の気分ひとつで簡単に冥府へと旅立つ準備をさせられることは明白だった。
幸いなことにマザコン気質なのか母親のことは優先するようだ。だから安易に殺すという選択は取れないため、苛立ちをぶつけるのに拳を使ったのだ。
まさに子供だな、と思う。後妻が連れる子供の反応と大差ない。なまじ力がある分厄介なことこの上ないがここで適当にはぐらかしても自分の中で折り合いつくまで付きまとわれるのが目に見えていた。
「はぁ……人に当たる前にやることがあるだろうに。なんで母親が話さないか考えないのか? それとも自分の思い通りになる便利な存在だとでも言うのか?」
「何も知らないくせに、知ったような口を──」
「そうだよ。何にも知らねえって言ってるじゃねぇか」
勇気が言い終わると同時に目の前で風切り音が鳴る。紗希が外したのではなく、来るだろうと予想していた勇気が首を後ろに逸らして躱していた。
当たらないと思っていなかったのだろう、反動のない手を見つめていた紗希は、手を握りしめて、
「お前は屑だ! 人でなしだ! 日陰者だ!」
「まぁ自覚はしている」
「……わしくない」
聞きそびれそうになるほど小さな声が俯いた口元から発される。
繰り返される言葉は次第に大きくなり、はっきりと聞き取れる頃には顔と指を上げ、
「ふさわしくない! お前は母さんにふさわしくないんだ。なのに、なのにどうして母さんは私じゃなくてお前なんかを見ているんだ!」
肺いっぱいの空気を吐き出すと、再度枝を構える。
空気が変わった。それを察して勇気の額から汗が一滴流れ落ちる。
──やばい。
その言葉が脳裏に過ぎった時だった。
「──お前に試練を与える」
「ちょ、それは駄目だって」
慌てた様子で止めに入るメメ子に、紗希は枝の矛先を彼女に向ける。
「ルールと報酬さえあればいいだけだろう」
気持ち柔らかい表情を作り答えると、メメ子はそれを強く否定するように首を振る。
「違う。さっちんは元が人間なんだもん。怒られちゃうよ!」
「別にいい。この男さえ殺せれば後は何もいらない」
そう言い放つとまた枝を勇気に向ける。
冷静さに欠け、自分が何をしているかわかっていない。目的が既にすり変わっていることすら把握していない。
それがわかっても勇気はどうすることも出来ない。一度導火線に火が着いた爆弾は破裂するまで止まらないのだから。
死ぬ、かもな……
嫌な気配が粘つく臭いとなって身の回りにこびりつくのを感じる。色がついていたならばおぞましく深い黒色だっただろう。
それでも座して天命を待つ気は無い。
「試練ねぇ。さっきひとつこなしたばかりだから遠慮したいところなんだが──」
「私と闘ってもらう。ハンデとして一太刀入れたらそちらの勝ちでよい」
話を途中で遮られ、勇気は口元を歪める。
聞く耳を持たない、その意思だけはしっかりと伝わっていた。
教育がなってないな……
小さなぼやきは誰にも聞こえず、紗希は眼光を鋭くし、
「もし私に勝ったら母に会わせてやる」
「ありがたいね」
「では、死ね」
言い切る直前、勇気は紗希の口角が上がるのを見ていた。
その時には既に勇気の体は動いていた。愚直に直進は出来ない。後ろに引けば二度と詰めることが出来ない。ならばと倒すように体を横へとずらしていく。
その全てが無意味だったのを知ることに時間はそれほど必要ではなかった。
気だるげに枝が振るわれる。記憶にある光景はそこで途切れていた。
「──かふっ」
足が地についていないことに気がついたのはそれからどれだけたった頃だろうか。
口から血混じりの痰を吐く。耳は死んだ。目も見えない。
なに、が……
ノイズの走る脳内は役に立たない。重圧に似た重苦しさだけが全身を包んでいた。
「やはり、抜け目ないな」
酷い耳鳴りの中、何かが聞こえた気がした。そこで初めて瞼が閉じていることに気付いて目を開ける。
普段より高くなった目線が風景を捉える。少し見下ろす程だった紗希が随分小さく、そして遠くに立っているのが見えて、
……ありえねぇなぁ。
そこで初めて自分が何かしらの方法で吹き飛ばされて壁に磔にされていることを理解した。
自覚したあたりでずるずると体が落ちる感覚があった。先に地面に触れた足は力が入らず、へたり込んで固く冷たい床に尻を強打する。
大して残っていなかった肺の中の空気が咳となって吐き出される。
「……なにを」
「ただ枝を振っただけだ。見えていなかったのか?」
紗希はそういうと上段に枝を構える。
何をするつもりなのか瞬時に理解する。が、それに備ようにも体が動かず、勇気はただ見つめる以外の選択がない。
先程よりもより緩慢に振り下ろされた枝は大気を押し潰す。目に見えないが確かに空気が上からのしかかってきて、勇気は堪えきれず地べたに這い蹲る。
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