第21話 悪寒
それどころか女性は小さく笑みを作り、
「あの人らしいわ」
一言呟くと、目を大きく弓なりにしていた。
それは郷愁に思いを馳せるようにも、獲物を狙う獣のようにも見える。そのどちらも正しくて、察してしまった紗希は可哀想に、と眉間を押さえた。
久しぶりにあの人に会える。そう想像するだけで気持ちが昂るのを女性は感じていた。離別の十年は何よりも永く、耐え難いものであったがそれもようやく終わりを迎えるかと思うと身体が疼いてしまう。
とはいえ今日明日で会うことは出来ない。彼が試練を十や二十、軽々と突破してみせるだろうことは目に見えているがそれでも時間はかかる。やる気を出すために期限を設けてみたりしたが、なるべく早く逢いに来てくれることを女性は願っていた。
「母さん」
その切望を遮ったのは紗希だった。
女性はゆっくりと目を閉じると、薄く目を開く。邪魔をするなと言わんばかりにその瞳には敵意が宿っていた。
それが余計に紗希をいらだたせることになっていた。
「あの男は何なのですか? 大事な人であることは理解していますが彼からは日陰に生きる者の匂いがします。関わることで得があるようには思えません」
「それがどうかしましたか?」
それはひどく冷たい返答であった。娘からの忠言だというのに有象無象からの騒音のように相手をする。
余計なことを言うなという目に紗希は押し黙っていた。十年育て、一緒に過ごしてきたといえどそれは彼から頼まれたためであり、彼との関係を繋ぐ鎖が目的だからだった。女性に愛情が全くないわけではないがそれは拾ってきた家畜に向けられるものと遜色ないものである。
甘やかしすぎたかしら、と女性は思う。立場を考えれば誰であれ反論、意見することを許されていない。思いのほか優秀であったために優遇していたが、噛みつくペットに用はないと一層冷ややかな目線を紗希に向ける。
「私が、あなたが思うような手で害されるほど弱く見えるのですか?」
「……い、いいえ」
「ならいいわ……体を冷やす前に早く寝床に入りなさい」
女性はその言葉を最後にまた庭へと顔を向ける。
突き放すような一言だが先程までとは違いそこには情が確かに込められていた。それを感じ取った紗希は引きつっていた頬を緩め、おやすみなさいと跳ね起きて部屋から退出する。
襖の閉じる微かな音を最後に、部屋からは音が失せる。
どちらに似たのか、人の機微に聡い子になったと女性は笑う。きっと彼女自身で秘密を暴いてしまうだろう。それくらいは出来るように教育をしてきたつもりだ。その時あの人はどのような顔をするだろうか。
「早く、逢いに来てくださいまし」
女性は見えるはずのない彼をただじっと見つめていた。薄明かりの中で縦に割れた双眸が黄金に輝いていた。
「おぅ!?」
怪音を響かせるのは勇気であった。
急いで振り返るもそこには雑踏のみで特別目を引くものは無い。おかしいなと思いつつも勇気は正面を向き直す。
ここ数日謎の悪寒に襲われることが増えていた。背筋を撫でられる、いや大きな舌で舐められるような感覚に気味の悪さと不快感を感じていた。
こういう時はだいたい良くないことが起こるんだよな、と勇気は肩を落とす。
「どうかした?」
いつものように隣に並ぶメメ子が尋ねてくる。それになんでもないと答えた勇気は丁度青に変わった信号を見て歩き出す。
黒猫の一件から既に十日が経過していた。その間勇気は自分の仕事に専念をしていた。
仕事のほうは驚くほど順調に進んでいて、あまりの波乱の無さに何か大きな間違いを犯してしまっているのではないかと余計な勘繰りをしてしまうほどだ。
その一方で鈴音とやらと会う目処は全くたっていない。それらしき猫が居ないか片手間に探してはいるものの芳しくなく、また新たな試練を受けることも無い。自分から探そうにもリバースギャップに独力で行くことも叶わないため、望ましくない形で招待されるのを待つ他なかった。
だから不可抗力として延長できないかな、と勇気は考えていた。仕方なくメメ子に聞いたところ調律をすることは容易いのだが、因子持ちは極端に少ないためほとんどが無駄に終わるだけらしい。諦めずに何度も何度も繰り返していればいずれは因子持ちと出会えるかもしれないが、今度はリバースギャップ内での獲物の争奪戦になってしまう。調律の範囲が狭いことも相まってそれに嫌気がさして次第に調律を行わなくなるか、時折思い出したように実行するかに留まるためただ待つだけでは無理だと言われ、勇気はほかの手を考えるしか無くなっていた。
ではどうするか、手は一つしかない。メメ子に頼んで自分からリバースギャップへ赴き試練を探すことだった。こちらとあちらの二重生活になることを考えると気勢が萎えるが、丁度仕事も一段落ついたので余裕はあった。
季節を先取りした寒波が押し寄せる十月中旬。勇気はせわしなく街を闊歩していた。
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