第15話 猫の試練
じりじりと距離を詰める中で、勇気は猫だけを注視していた。
一歩、また一歩と近付くにつれ心臓の音が強く響いているようだった。が、予想に反して黒猫は猫らしく塀の上で眠り続けている。
頼みの綱の予感も沈黙を続けていて、思わず気を抜きそうになる。いかんと自身に喝を入れるも気付けばもう手の届く位置まで何事もなく来ていた。
……本当に大丈夫なのか?
拍子抜けに思いながらも、警戒は緩めない。しかしここからどうするか、そこが悩ましい。
友好的に、それとも高圧的に行くか。どちらが正しい答えなのかは分からない。一瞬の逡巡の後、まぁ悩んでいてもしょうがないと勇気は直感に従うことにした。
「やぁ、初めまして」
「ん? あぁ人間か。すまないな、適当に調律していたら誘い込んでしまったようだ。いや分からないならそれでいい。君には関係ない事だから」
意外にも饒舌に話す猫に勇気は呆気に取られ言葉を生むことが出来ずにいた。
しかし猫は、その様子を意に介さず、
「しかし運がいいのか悪いのか。出会ってしまったからには試練を与えようと思うのだが……横取りは誠実さに欠けるとは思わないかい?」
問いかけた先は勇気の隣へと向いていて、
「気にしないで。早い者勝ちでどうぞ」
両手を差し出すように広げて、メメ子はそう言う。
まるでトロフィーのような扱いに思うところがない訳では無いが、話を聞いてくっくっと笑う黒猫の、その気配が盛り上がるのを感じて勇気は身構えることに集中する。
先程までとは違い、嫌な予感が滝のように打ち付けてくる。思わず踵を返したくなる衝動を抑えながら貫くように視線を投げると、
「なるほど、それなりに事情は把握しているみたいだね。ただそんなに身構える必要は無いよ。僕は紳士だからね、この
黒猫はその小さな口でペラペラと話し続ける。
……うさんくせぇな。
勇気が思っていたのはそれだけだった。抑えきれない殺気を紛らわすように言葉を重ねる姿が、相手をただの獲物としか見ていないハイエナを想起させるように思えてしまう。
「ちょっと!」
二人の間を急にメメ子が断つ。
咎めるように語尾を強める彼女は、
「映世なんて古臭い言葉使わないでってば。リバースギャップでいいでしょ」
「……今そこはどうでもいいだろ」
腰に手を当て気持ちをあらわにする彼女に対して、勇気はそう言いながらため息をついていた。
つい思ったことを口走ってしまうほど毒気のない言葉に、勇気は気が楽になり力を抜く。
慢心と余裕は違うのだ。未だ警戒はしているが無駄に体力と神経を使う必要は無い。何があっても柔軟に対応できる余力を残しておいたほうがいい。
「まあまあ、女性の言葉を無下にするものでは無いよ」
「わかったわかった。だからさっさと本題に入ってくれよ」
黒猫はやれやれと嘆息していた。聞き分けのない子供を諭すような口調に苛立つ気持ちがマグマのように湧いてくるようだった。
「せっかちなのは得しないと思うんだがね……ルールは簡単さ。僕を捕まえたら君の勝ち、ただの鬼ごっこだね。ちなみに僕はここから一歩も動かないよ、そうしないと人間には捕まえられないからね」
「そうかい、ありがとうよ」
そう言い終わった瞬間、勇気の腕が伸びていた。
不意をつくように猫に真っ直ぐ伸びた手は、届くはずの距離にいたはずなのにかすりもしない。
そう簡単にはいかないよな……
気付けば猫は既に遠くにいた。いや、見ている限り動いた様子はない。どちらかと言えば自分が下がっているようにすら感じていた。
「なるほど」
そう呟いて見せるが実の所よくわかっていなかった。
その間にもどんどんと彼我の距離は開いていく。その速度は自動車と同じくらいのようでたとえ今から全力で走ったとしても追いつくとは思えない。
胸中に軽い絶望感が渦巻くが、ここから一発逆転をしなければ明日は無い。幸いなことに向こうから何かするといったことは無いようなので時間だけはそこそこあった。
その時、
「お兄さん」
「ん? どうした?」
声をかけられ振り向くと、メメ子が指を指していた。
その方向を見れば、ずりずりと音を立てて寄ってくるものが見えて、
撒いたと思ってたんだけどなぁ……
引く程巨大な肉の塊が視界の隅に現れていた。
「どうするの?」
楽しそうに笑いながら尋ねてくるメメ子を無視して、
どうすっかなぁ……
ついに時間まで敵に回ってしまい、途方に暮れるように勇気は空を見上げた。
光度の低い星明りはこの状況ではほとんど見ることができないようだ。怪しく光る月の光だけが白く映っていた。
早く行動に移せとせかす気持ちと、冷静になって突破口を見つけろという気持ちがせめぎあっている。どちらの言い分も正しく、されど結果が出せなければどちらも正しくはない。
勇気は強く目を瞑ると、大きく息を吸い込んで短くそれを吐いた。そして正面を向いて走り出す。
全力ではない、少しペースの早いジョギング程度だ。十秒ほど走ってみたが、結果は言わずもがな。予想通り猫との距離は縮まった様子はないが、十二分に離れたからだろうか、豆粒ほどの大きさのまま変わったようには思えない。
ちらりと後ろを振り返ってみる。タイムリミットは依然と距離を詰めてきていて走った分距離が離れていたということはないようだ。
そう、まるで自分だけこの場に釘付けにされていて、ただもがいているという感じだった。
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