第10話 その日の夜のこと

「ご馳走様でした」


 先に店から出たメメ子は、会計を済ませた勇気が出てくるなり頭を下げていた。


「金、持ってないんだな」


「そりゃあね。家なし名前なし戸籍なし。働きたくても働けないんだよ。まあ働きたくは無いけど」


 メメ子はあっけらかんと言うが、それでは不便だろうと思う。

 だから勇気は財布から数枚の札を取り出し、


「貸し一つな」


「あはは、別に困ってるわけじゃないけどありがとう。でも──」


 メメ子はまた含みのある笑いをして、


「──ここはリバースギャップじゃないので一歩引いてあげないからね」


「んな事望んじゃいねぇよ。みすぼらしい真似しないで済むように持っとけってことだ」


 半ば押し付けるようにメメ子の手に握らせながら、勇気は内心で悪態をつく。出来る限りイニシアチブを取りたかったのだ。それを見透かされているような目で見られて取り繕うような嘘が口から出ていた。

 眼前で札を扇状に広げたメメ子はしばらくの間はしたなく見つめていた。そして、その大きな悪趣味の塊のようなバッグに押し込む様子を見て、


「財布に……ないのか」


「ははは、今はね。後で買わなきゃ」


 気恥ずかしさから顔を直視させないように背けるメメ子をみて、見た目相応なところもあるのかと勇気は調子が狂うようだった。怖い奴は怖い、ヤバい奴はヤバいと一貫性がある世界で生きていただけに、今のように騙そうとしていない純粋な反応に対して免疫がなかった。

 やりにくいな……

 絆されることは無い。が、使い潰すのも躊躇われる。もっと単純ならばやりようがあるのにそれが出来ないのだ。

 だってそうだろう。狂気はルールで縛れても情はルールで縛れない。今の根底がどちらかを考えて対応していかなければならないなんて面倒の極だ。

 そして、勇気はいかんな、と頭を振る。

 あまりに衝撃的な事実が陳列されていたせいで主目的を忘れかけていた。この街に拠点を作る、今日はその顔見せに来たのだ。

 勇気は腕時計を見る。時間は午後五時に近く、いささか時間を浪費した感は否めないがまだ約束の時までは時間があった。

 流石にこちらの事情にメメ子を付き合わせるわけにはいかない。それが安心でもあり、心細くもあるがどうしようもないことだった。


「俺はこの後仕事があるから……またな」


 最後に何と言っていいか迷った勇気は再会を約束する言葉を吐いて、その場を後にする。


「気を付けてねぇ」


 背後から飛んでくる声は無邪気そのものだ。五歩ほど歩いたとき、なんとなく振り返った勇気は無人の道の上に立っていた。

 まさに神出鬼没。真正面からでは叶うはずもない存在に目をつけられてしまったことに、独りになって初めて理解させられるようだった。

 事故みたいなもんさ。避けようがないなら天運に任せるしかない。

 自分を納得させる言葉をつぶやいて、夕暮れの街に溶け込んでいく。

 幸いなことに身構えるだけ損だったと、数時間後の電車の中でため息をつくことになることをまだ彼は知らずにいた。





 日付もそろそろ変わるかという時間。勇気は自身の経営するバーで客席にいた。

 いつも通り閑古鳥の鳴いている店内ではボーイが一人、暇そうにグラスを磨いている。

 それを咎める気はない。彼に満足いく仕事をさせられないオーナーのせいなのだと勇気はわかっていたからだ。

 あまりに暇すぎるのは良くない。時間があればあるだけ人は信じられないような悪事を働くものだ。それでもここのボーイは長年よくやってくれている。全幅の信頼を置くことはないがある程度安心して任せられるのは新規出店を控えている勇気にとってかけがえのない存在であった。


「八雲」


 勇気が名を呼ぶと、ボーイの男性がゆっくりと駆け寄ってくる。

 年は勇気よりも少し下程度、白シャツにベストという恰好にまだ着せられている感がぬぐえない彼は、


「なんですか、オーナー」


 勇気よりも目の高さを下になるようにかがむと、張りのある声で答える。

 酒やつまみの作り方など二の次、何より相手を怒らせないことを重視した指導が行き届いていることを確認した勇気は、


「ボトルを一本出してくれ。そしたら今日は上がっていいぞ」


 要件を伝えると、軽い会釈を残して素早くカウンターに戻る男性の後ろ姿を見守っていた。


「ボーイはこの店が一番だなぁ。気が利くし愛想がいい。飯はいまいちだがな」


 勇気のテーブルの上座のほうから声がする。

 股を大きく開き背もたれに寝そべるように座る男性は、先日勇気に鈴ヶ丘での商売を依頼してきたヤクザの若頭であった。

 今日はその進捗を聞きに来た、というわけではない。そんなこすい真似をする必要がないからだ。ただ単純に一人で飲みに来たというだけだった。

 まだ入店して大して時間が経っていないのにも関わらず、頬に薄い紅が差している。大方どこかで飲んできて、寝酒か酔い覚ましに立ち寄っただけなのだろう。プライベートで利用するのに一軒目からこんな碌な飯も出せない店を選ぶはずがない。

 それどころかそもそもプライベートで好んで利用するような店ではないのだ。


「大蔵さん。八雲に酒作らせましょうか?」


 気に入っているなら、そのつもりで勇気は提案していた。

 立場のある人間だ、無体なことはしないだろうという確信はあった。それに八雲にとっても上客に気に入られることは悪いことではない。

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