2
廃墟で彼女が歌うのは決まって夕方で、三十分から一時間程度だ、ということが分かった。
だから私のコンビニのシフトが一時までで終わる日には聞きに行くことが出来たが、それ以外の時は遭遇することはなく、翌月から午前中のシフト希望を多めに出すことにした。
何故彼女が土手でなく、わざわざあの廃墟となっている教会を選んで歌っているのかは分からない。恥ずかしい、という感情から公園や適当な空き地、駅前の人通りの少ない場所を選ばないという心理は理解できる。あるいは彼女の自宅からこの場所が近い、という単純な理由で選ばれただけかも知れない。
何にしても彼女の歌声は私の日々の小さな楽しみだった。
心の中で密かに『黄昏時の歌姫』と呼んでいたけれど、その歌姫と偶然スーパーで遭遇した時には思わず声を上げてしまった。彼女は天使でも女神でもない人間なのだから、当然スーパーにだって現れる。食事も取るだろうし、料理もするだろう。そんな当たり前のことを、けれどあの廃墟は軽々と超越してくれる。
スーパーのLEDライトの下ではごく普通の女性だけれど、あの廃墟の教会にいる時には私からすれば後光すら差して見える。
その彼女との、ちゃんとした会話が発生したのは私の不注意からではなく、珍しく彼女の喉の調子が悪かった時のことだ。歌おうとするのだけれど咳き込み、喉の調整をするように小さな咳払いを繰り返してから、またチャレンジする。けれどいつものような歌声は出てこない。
「無理をしない方がいいですよ」
お節介以前に見知らぬ男性が声を掛ければ驚くのが道理だろう。しかし彼女は「そうですよね」と苦笑を見せてくれただけだ。
「あの、これ。よかったら。全然手をつけてない新品です」
姿を現してしまえばもう、何を言われても構わない。そんな気持ちで一歩、前に出て、彼女にペットボトルを差し出す。少し汗をかいていたが真新しい水だ。清涼飲料水ですらない。
「宜しいんですか?」
「ええ。いつも、綺麗な歌声を聞かせてもらっていたんで」
「まあ」
流石にその告白には驚いたみたいだけれど、私の手からペットボトルを受け取ると
「ん、ん……大丈夫かな」
彼女は確かめるように喉に触れ、それから「あー、あー」と発声をする。まだ少しいがらっぽいようだが構わずに彼女は歌い始めた。それはいつも歌っている賛美歌のようなそれではなく、私が小さい頃によく母親が聞いていた、今では懐メロと呼ばれる、ある女性歌手の曲だった。
知っている曲だから、なのだろうか。いつもとは違う感覚が私を襲う。まるで舞台の上でマイクを握った彼女が歌っているようで、さながら小さなライブハウスに居るみたいだ。
曲は五分ほどで終わる。彼女は「どう、だった?」と、私の顔を見ればとても良かったことは理解出来るだろうに、わざわざ尋ねた。だから私は当然のように「良かったです」と言いそうになり、でもそれでは芸がないし、何と言って表現すればいいのだろうかと考え込んでしまった。
「え?」
そんな私の様子に彼女は不安そうになり、次いで「やっぱり、向いてないか」とぼそりと呟いた。
「あの、とても良かったというか、良すぎたというか、なんか地味に感動してしまって、どう言えば伝わるだろうかって考えてて」
「そっか」
声楽か何か勉強しているのだろうか。上手い、というありきたりな褒め言葉では失礼にも思えて、私は拍手をし、その辺に落ちていた「ブラボー」という言葉を連呼した。
「ありがとう」
その言葉が適切だったかどうかは分からないけれど、彼女は少し照れたように俯いて感謝の言葉を口にすると「今日はこれで終わりにするね」と付け加え、ポーチとスマートフォンを手にする。そのまま教会を出ていこうとしたけれど、何か忘れ物をしたのだろうか、一旦私の前まで戻ると「
「それじゃあね、飯山君」
笑顔に加えて小さく手を振り、彼女は私の前を離れていく。教会のドアはうまく閉まらないけれど、ギイィという音をさせて途中まで閉じると、すっかり彼女の姿を遮ってしまった。
ともかく、こうして私と彼女は出会ったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます