黄昏時の歌姫
凪司工房
1
誰でも心の中に一つくらいは誰にも話したくない秘密の場所や風景があると思う。
そこは私にとって最初はただの廃墟だった。
傾いてきた日差しが川面に反射してキラキラとしているのを右手に眺めながら、土手を歩くのが当時のルーティーンだった。就職活動に失敗し、学生時代から働いていたコンビニでそのまま雇ってもらいながらとりあえず人生設計とか将来の目標とかを練り直す必要に迫られていて、精神状態は良いとは云えなかった。かと云って仕事以外の時間は六畳間の狭いアパートで部屋の住人みたいな顔をしているパソコンと
自宅アパートとコンビニの中間地点くらいの土手を下りたところに、その建物はあった。塀に囲まれた二階建て、いや、三階相当だろうか。かつては白かったと思われる壁は黄ばんでいて、その上を
中に入るとちょうどステンドグラスの天使か女神の絵が床に伸びて映し出されている。正面にはお決まりの十字架に貼り付けられた髭の男性がいて、入ってきた私を見下ろしていたのだけれど、彼以外は誰もいない。長机の上には
けれどもそれが良い。
大丈夫か確かめて椅子に座るとスマートフォンを取り出し、曲のアイデアのメモを取る。元々散歩をしていたのも曲の着想を得る為だったし、そもそもこういう廃墟はイメージを喚起してくれる最良の素材だ。
ここに立ち寄ることもルーティーンにしよう。そう思ってその日は立ち去った。
翌日も私は廃墟となったその教会を訪れた。けれど玄関のドアが僅かに開いていて、明らかに中に人がいるのが分かった。
――廃墟好きな先客か。
私は諦め、その場から立ち去ろうとしたが、背を向けたところで聞こえてきたのだ。歌が。歌声が。
伸びやかな女性のソプラノだった。声楽をやっている人だろうか。綺麗だとは感じたけれど、それだけでなく、何だろう。陰がある、とでも云えばいいのだろうか。私の立ち去る足を引き止めるだけの何かがあった。
私はそっと教会の脇に回り込み、窓から中を覗き込んだ。
足元まであるゆったりとした花柄のワンピースを着た女性だ。髪は後ろでまとめていて、結構長いのではないかと思える。長机の上にはポーチが一つ置かれ、その脇にスマートフォンがあった。彼女は自分の耳を指先で何度か触れ、また別の曲を歌い始める。よく見ると大きなイヤリングではなく、ワイヤレスのイヤフォンが嵌っているようだ。
歌っていたのは賛美歌、あるいは聖歌と思われる、外国語の歌詞のものだ。
私はそこで見つからないようにしゃがみ込むと、彼女が歌い終えるまでぼんやりとそこで歌声に浸っていた。
彼女が教会を出ていったのは夕方十七時のアヴェ・マリアが流れるのを聞いてからだった。
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