或る男の話 六日目
あぁ、もう彼女の身体は人としての原型を保ってはいない。服のお陰で辛うじて人の形を留めてはいるが、指で突いたらズルリと崩れてしまうだろう。
ウジの侵食によって頭部は個人の識別が困難になった。頭皮は毛髪の重さに耐え切れずこめかみから千切れ、床にはウジの混ざった縮れた毛髪が床に散乱していた。
「私、整形したいのよね」付き合った当初、彼女がそんな風に話していたのを思い出した。どうしてか尋ねると「自分の顔が好きじゃないのよ、色々直したい箇所があって……」整形しなくても可愛いのに、と言うと、彼女は照れ臭そうに笑っていた。
俺はお前が老けてオバサンになっても、お婆ちゃんになっても好きでいたよ。当時は伝えられなかったが、現に今、禿げて顔も変形した彼女を見て、まだ彼女だと認識出来ている。俺は彼女に口先だけの言葉を吐くのが嫌だったが……そうだな、今ならちゃんと言える。俺はお前をこの先ずっと愛せたよ。
彼女は今どこかで、俺のことを見てくれているのだろうか?彼女が「嫌!そんな私の姿見ないで!」と顔を覆うイメージが浮かんだ。大丈夫だよと伝えたいが、既に彼女は死んでいる。もし彼女の意識がこの世の何処にも無いのだとしたら、いま自分のしているこの行為はどれほど愚かな事だろうか。けれど自己満足として、これほど立派な確証はない。彼女の死体の腐る様を見続けてもう一週間近く経つ。その間、一度も彼女自身を嫌だと感じた事はなかった。これだけの愛情表現は他にないんじゃなかろうか、本末転倒ではあるが……
元は九相観を試す気持ちで彼女の死体を眺める事を始めたのだ。九相観とは仏教における教えで九相、即ち脹相、壊相、血塗相、膿爛相、青瘀相、噉相、散相、骨相、焼相の九つの段階で人の死を捉え、その過程における人体の醜さをもって肉体への欲、煩悩を振り払おうとする僧たちの修行の一つである。
つまり全ての人間が結局は死を迎え、無惨に散っていく儚い存在だと認識する為の手段であり、実際には頭の中で想像する事で修行とするのだが、俺は彼女の死体をもってそれを実践しようとしたのだ。彼女の死体が腐乱していく様を見て九相を実感出来れば、本来の肉欲への煩悩を振り払うどころか、彼女への想いも捨て去る事が出来るのではないか、と考えた訳である。
しかし実際は、彼女はずっと美しく在り、彼女に集るハエすらも愛してしまう始末だ。仏様には愛想を尽かされるだろう。俺が彼女を愛していた事だけは、認めてくれるだろうか……いや、それもダメだろうな、なんせ煩悩を消す為の修行を真っ向から否定してしまったワケだから。
うん。これだけ自覚出来ればもう十分だろう、通報しよう。しかし、身体が動かない。ずっと彼女の事を見ていたからか、意識はこんなにもはっきりしているのに……
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