或る男の話 三日目

「なんだか嫌に暑くなってきたな、そう思わないか?」


 返事が無いと分かっているのに、そう話し掛けてしまうくらい部屋の温度は上がっていた。艶のあった彼女の髪は乾燥で縮れ始め、バサバサになった。まぁそんな髪型もアリだ。少しパーマを失敗した程度だ。

 それにしてもこの温度変化はおかしい。エアコンが自動で消える事は無いし、マンションの定期的な電気系統のメンテナンスも今月は無いはずだ。夜の間に停電でも起きたのか?気付かなかったが。

 とにかく不味い、この暑さでは今後の腐敗の進行は著しく早まってしまうだろう。そうなれば彼女との別れも……いや、今更別れだのなんだの言い出すのはおかしな話か。思い直して苦笑する。彼女を殺してから一度も食事をしていないせいか、顔が硬って引き攣った笑いになった。

 そういえば彼女は「笑顔が好き」と言ってくれてたな。いつも大笑いか引き笑いしか出来なかった俺は、大人数がいる場で笑うのが苦手だった。気の知れた数人ならまだ大丈夫だったが、学生時代の飲み会でつまらないネタで周りが爆笑してる時なんかは、愛想笑いしか出来ず困ったものだ。

 笑いのツボがズレているらしいと自覚してからは、上手く笑顔を作る方法を身に付けたが、営業スマイルというやつで帰り道はいつも頬を手で揉んでやらないと痛くて仕方なかった。

 その点、彼女とはいい具合に笑いのツボが合っていた。それでも愛想笑いをした事は何度かあったが……心の底から笑った事の方が多かった様に思う。

 目の前の彼女の顔に、生前の笑顔を重ねてみた。出会った頃より少し老けたか、なんて一番女性を怒らせる感想を抱いてしまう。そんな化粧しなくても、すっぴんで十分可愛いのに。


 ……化粧?そうか、彼女の血色が変わらず見えたのは化粧の白粉のお陰だったのか、それにしてもおかしい。なぜ化粧を?彼女はあの日、仕事だったのか?いや、昼に家に居たんだからそんなはずはない。仕事にしてもこんな口紅は引かないはずだ。何処かに出掛けようとしていた?よく見れば手の指も綺麗にマニキュアが施されてる。まつ毛のエクステも新しい。寝起きで気付かなかったが、彼女は明らかにデートの準備をしていた。

 出掛ける前提で俺にあんな喧嘩を吹っかけてきたのか?彼女は、俺が今日休みだと知っていた?じゃあなぜ……もしかして、と思いつく。彼女は俺がいつも必死に反論するのを面白がっていた。彼女は今朝、コミュニケーションの一つとして突っ掛かってきたのか。だとすれば俺は勘違いで彼女の行為を受け取り不機嫌になって、こんな事態に……

 すると不意に、頭が熱くなってきた。説明するなら、プレゼンで失敗した時や遅刻した時。自責による緊張で居た堪れなくなって、急に冷や汗をかく感覚に似ていた。脳の中を後頭部の辺りから目の奥にかけて、ギリギリと音を立てる様に何かが移動する感覚。じんわりと熱い感覚が目の辺りを覆う。これは……涙か?取り返しのつかない失敗への焦りか、彼女を失った喪失感によるものか、それとも彼女が居る間にすべき事を疎かにしていた自分の愚かさに嘆いているのか。


 分からなかった。ただ、ゆっくりと赤くぼやけていく視界の中で彼女の輪郭だけが、ずっと失われる事なく映り続けた。

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