或る男の話 二日目

 日付を超えて、二日目になった。まだ彼女は生来の美しさを保ったままだ。人が死ぬと一晩で青白くなると聞いた事があるが、彼女にはそんな変化はみられなかった。流石だ、自然の摂理である死すらも、その歩を緩めて彼女の美しさに猶予を与える……まだふざけて歌劇的な文章なんかを考える余裕のある俺は、食事も忘れてずっと彼女の死体を見つめていた。頭の天辺から爪先まで、いつまでも、食い入る様に眺めていた。

 そういえば最近はこうしてただ眺める事すらしていなかった。こんな、自分には勿体無いくらい上玉の女と一緒に生活していたのに、なんて勿体無いことをしてたんだろう。仕事は後回しにして、早く彼女と愛し合えば良かった。寧ろ彼女を優先して、仕事は急がずそこそこにこなせば良かった。そんな後悔が頭をよぎる。


 付き合った当初は毎日の様に会いたかったし、この世に彼女より優先するものなど何もないように思えた。だが世界はそんな都合良く回らない。程なくして自分の価値観は社会の中で生活する為に必要な仕事を求めるところから変化をはじめ、あっけなく彼女と過ごす時間は減った。それでも別れる事は無かったが、喧嘩が増え、その喧嘩の原因を探りながら思い切って同棲に踏み切ったのだ。同棲する事で強制的に二人で過ごす時間が増えるだろうという算段だったが、自分の予想以上に出費が嵩み、金銭を考え始めると数字に追われる感覚が芽生えた。共働きでも月給制の彼女の方が、出来高制の自分より平均で見ると稼いでいる事に焦っていた俺は、程なくしてがむしゃらに仕事にのめり込む事となった……

 同棲が間違っていたとは思わない。付き合った事も。高校の頃からの知り合いで腐れ縁と言ってしまうとそれまでだが、彼女の事を愛していたし、彼女も俺と何気ない会話をする時、本当に幸せそうな笑顔で居てくれた。

 問題があったとすれば、恐らく俺に生来からあった、一人で抱え込む気質だろう。彼女と共有するべきだった幾つかの大切な事を、きっと溜め込んでしまった。その塊が彼女を不安にさせたに違いない。そう考えると、「穏やか」と褒められる事が多かった自分にとって、彼女と繰り返したくだらない口喧嘩の数々は、俺が俺の中に溜まったブチ撒けるべき何かをその衝動に合わせて発散する手段として、極めて機能的な役割を持っていたような思える。

 口喧嘩が終わって仲直りした後に二人の間に流れる空気はなんとも言い難い奇妙なものだったが、それが昇華の後に残った熱だと説明されたら今更ながらしっくり来る気がした。


「やっぱり、私が正しいでしょう?」


 突然、目の前の彼女が自分に話しかけてきたような錯覚に陥った。だが当然ながら、彼女は微動だにしていない。なんだ、気のせいか……いや、少し瞼が開いたか?

 人間の死体は初期では皮膚の乾燥による変化が大きいらしい。男性の遺体で髭が伸びたように見えたりするのは、髭自体が成長するワケでなく髭の周囲の皮膚が乾燥によって収縮する事によって、相対的に伸びる予定だった髭が露出するからだ。夏という今の季節を考えるとこの部屋は涼しい。恐らく俺が寝ている間に彼女がクーラーを点けていたのだろう、室温が低い事は死体の腐敗進行を遅らせるという点で都合が良かったが、冷房による室内の乾燥が彼女の瞼の皮膚を乾燥させ、より大きくその瞳を露出させたようだ。

 まだ眼球の水分はたっぷり残っているようで、彼女の瞳には俺の背中側の壁にある室内照明スイッチの、緑色の小さな光が反射して煌めいて見えた。そういえばいつか『緑の光線』というフランスの映画を二人で観たことがあったっけ。太陽が水平線に沈む最後の一瞬の光の色……

 大学生の頃だったか、あの時の部屋の照明スイッチは小さな、反り返りのカーブ形をしたスイッチで、帰って来た時は真っ暗でどこにスイッチがあるか壁を撫でて探り当てたものだ。

 狭い部屋の中で二人で寄り添いながら、色んな映画を観たな。今の僕の事を映画にするなら、どんなジャンルになるかしら。サスペンス?純愛?サイコ?そういえば江戸川乱歩の『蟲』という小説で似た様な事をしてたっけ……

 

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