或る女の話 一日目

「あぁ、ホントに綺麗だわ……」


 少し遠くに横たわる彼の顔を見て、私は溜め息を吐きながらそう呟いた。力を込めてグッと見開いたままの両眼。瞳孔開いてるけれど、それでも素敵。「決してオマエを赦さない」そう強く憎みながら死んだ男の目。

 どうしてこんなにも素敵なんだろう?ホントに死んでるのかしら……確認したいけど、触れる事は出来ない。何故かって?恐らくだけど、彼を殺した後にまた触れてしまうと、折角の観察が台無しになるからよ――


 彼を殺してしまったのは本当に物の弾みだった。同棲を始めてから暫くして、退屈になって揶揄おうと寝起きの彼にちょっかいを掛けてみた。

 彼は私が少しイジワルを言うと、全てを正論で返そうと必死になって言い返してくる。その懸命な感じが可愛くて、私の心の中のどうにも説明できない部分を刺激するのだ。私は彼との口喧嘩の内容なんてどうでも良かった。とにかく「自分が悪者になるのを嫌がる」彼は、私の非難がどんなに荒唐無稽なものであれ、色々と理屈をこねくり回して論理的に返してこようと努力してくれた。

 そのやりとりは側から見れば本当に馬鹿なものに思われるだろう。けれど私達にとってその口喧嘩は必須のコミュニケーションであり、少なくとも私にとっては、日常という大きな川の底から、他人が誰も気付くことのない小さな真理を探り当てる為の特別な作業だったのだ。

 知識が豊富な彼の論理武装をがむしゃらに剥がそうとする内に、自分でも無自覚だった色んなことを論理的に再解釈してより高次元な理解を得たり、彼も私の感情的な意見に論理を合わせようとする過程で、新たな理論を構築して気付きを得る。そんな事が往々にしてあった。

 だから私は、彼との口喧嘩が楽しくて仕方がなかった。今日だってそうだ。仕事が休みなので朝から家で映画を観て、彼が起きるのを待った。起き抜けの彼に「ねぇ……」と声を掛けて反応を伺うと、明らかに不機嫌そうな顔だったから、内心ニヤニヤしながら厄介そうなセリフをふっかけてみたのだ。

 寝起きの彼はいつもより頭の回転が遅い。正確に論理を組んで反論しようとするよりも、「自分が理不尽に責められている」ことを自覚する気持ちが強い様だった。その表情を見ていると少し可哀想に思ったので私が彼の頬を撫でると、彼は急にその手を払い除け、私の顔を引っ叩いた。私は「暴力なんて最低!」と叫んで、咄嗟に後ろ手で掴んだモノを彼の方へ向けた……


"ゴツン"


と鈍い音がして、彼は倒れた。私の握った物はテーブルの上に飾っていた花瓶だった。「倒れにくくて割れない花瓶が欲しい」と頼んで買ってきて貰ったそれは、低重心のために細い首が下にいくにつれて広がる特徴的なデザインになっており、ステンレス製の丈夫なもので逆手に持ったせいで先端の太い鈍器と化したのだった。

 私が「彼の方へ向けた」つもりの動作はその長さ故に「彼に向けて振り翳す」動作になり、直前に彼が私の方へ近付いていた為に、彼の後頭部を直撃したのだった。


 彼の倒れ方から、その一撃が"致命傷"である事は容易に想像がついた。私はそのまま地べたに座り込むと、暫くして彼と見合う様に横たわってみたの。

 「地べた」なんて表現をしたけれど、私の横たわった場所は、テーブルの移動でフローリングが傷付かない様に、そして何より私が床の冷たさを嫌った為に、彼に敷いて貰ったふかふかの絨毯の上だった。まるで彼の温かい愛情に包まれているようで幸せな心地になりながら、私は彼を見つめ、そのまま彼の死体に見惚れてしまったというわけ。


「分かる?見惚れてるのよ。私、貴方に。もう死んでる貴方に見惚れてるの……」


 どれだけ好きだったか分かるわよね、とは口に出して言えなかった。言っても言わなくても死んでる彼には聞こえないけど、もし私の声帯がその言葉を発する為に震えたら、何故か彼にバレるような気がしたの。どうして警察を呼ばなかったかって?バカな質問ね、私は彼に見惚れてたのよ。彼は死んでるんだから、他人に知られた瞬間が永遠の別れになる。だから私が飽きるまで彼を見つめてからでないと、勿体無いでしょう?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る