或る男と女の話

秋梨夜風

或る男の話 一日目

「本当に、綺麗だよ……」


 自分にとって最高に美しいはずの存在に対して"綺麗"なんて軽い表現しか出てこない事に嫌気が差す。

 今、俺は冷たいフローリングの床に横たわっている。目の前には同じく横たわった彼女の姿。

 身長差はあるが、頭の位置を合わせた形で寝転がっているので目線が合う。俺は脚を赤子のように曲げて。彼女は膝伸ばして。

 片腕を枕にし、涅槃のような体勢で互いに体の正面を向かい合わせるようにして寝転がっていた。


「……」


 先程の俺のセリフに、彼女は一切返事をしなかった。当たり前だ。既に事切れているのだから。彼女の半開きの口からは声どころか、吐息ひとつ出ていない。交わしている目線も、偶然こちらを見ているように見えるだけで焦点は合っていなかった。瞬きをしなくなってから、そろそろ二時間は経った頃だろうか――


 元々、軽い言い争いはしょっちゅうする仲だった。今日だって、喧嘩の元はホントに些細な……休みが合わないから寂しいとか、構ってくれとかそんな理由だったと思う。

 確かに最近は連日仕事の為に出突っ張りで、同棲を始めたというのに顔を合わせる時間が減っていた。俺の仕事は出来高制で、大きな仕事が入った時にはいつその仕事を終えられるかが分からない。生活リズムがずれ込むので彼女とのサイクルも合わず、初めは俺が帰るのを待ってくれていた彼女も、自身の仕事との兼ね合いで先に寝ている事が増えた。そして彼女が朝起きて仕事に行く時、俺は寝ているのだ。

 そんな感じの生活が続いたのでここ四、五日のやり取りは「飯を家で食べるかどうか」「何時に帰るか」程度しか出来ていなかった。もし今日から休みだと知っていたら、彼女は寝起きの俺に喧嘩をふっかけては来なかっただろう。俺は性格から、仕事を終えそうなタイミングでも「いつから休み」だと予め伝える事が苦手だった。そんな風に期待させて、ハプニングが起きて予定が延びたら彼女をぬか喜びさせてしまうことになるからだ。ただ昨夜眠りにつく前に、次の朝起きる彼女へ向けて「仕事を終えたから、今日は休みだ」とメッセージを残しておく事は出来ただろう。それは明らかに俺の落ち度だ。

 言い訳したく無いが、俺は寝起きがとにかくしんどい体質だ。だから彼女の責め立てるセリフを受け止める精神的な余裕はあの時には無かった。そもそも忙しい時期を終えた折角の休みの日に、彼女と喧嘩なんてしたくなかったし、彼女に「今日は休んで二人で過ごしてよ」なんて言われずとも、夕方からでもどこかへ出掛けて、今までの分の埋め合わせをするつもりだったのだ。

 "埋め合わせ"と言っても、それは同時に自分の寂しさを彼女に癒してもらう時間だ。だからとても楽しみにしていたのに。


 なのに今日、俺は彼女を殺してしまった。

反応が悪いとかなんとか言い掛かりをつけて、いきなり彼女が頬を叩いてきた。だから頭に血が昇って、彼女を殴り返した……気付くと、彼女は床に倒れていた。俺の拳でよろけた時に机の角にでも頭をぶつけたのか、打ち所が悪かったのだろう。ピクリとも動かなかった――


 本来、直ぐに救急車を呼ぶべきだ。しかし身体が動かなかった。だから俺は、もう手遅れだと悟ってから、彼女が彼女でなくなるまでずっとこうして、隣で眺めていようと決めたんだ。

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