第23話 父子邂逅

 華鳥かちょう潘誕はんたんが、呉を目指(めざ)す旅に出てから一月ひとつきが過ぎた時、しょく国境くにざかい久々ひさびさ緊張きんちょうが走った。

 魏の軍勢ぐんぜい約二万が、国境の直ぐ近くに集結しゅうけつして、侵攻しんこうかまえを見せたのである。

何故なぜ、今このような動きをするのだ? 魏とて国が混乱こんらん最中さなかなのに...」

 わけが分からぬと首をひね姜維きょうい王平おうへいに対して、華真かしんが口を開いた。

「今の魏で覇権はけんを争っているのは、夏侯一族以外かこういちぞくいがい軍属ぐんぞく達です。まだ合従連衡がっしょうれんこう状態じょうたいですが…。その中で賈充かじゅう王沈おうちんが手を組んで、抜け出しをはかっています。此度こたびの動きは、恐らく彼らの意図いとでしょうね。」

 いま合点がてんかない顔の姜維と王平を見て、華真は言葉ことばを続けた。

軍属ぐんぞくがその威厳いげんを示す手段しゅだんと言えば、何と言っても自分の持つ軍の力を見せつける事です。賈充と王沈は、蜀に多少たしょうなりとも勝利しょうりする事で、他の軍属達ぐんぞくたちおのれの力を見せつけたいのでしょう。本格的ほんかくてきいくさにまで行くとは思えませぬが、多少の小競こぜり合いは仕掛しかけてくるでしょうね。今の蜀がどの程度ていどまで国をまとめているかをさぐる為にも...」

 華真の説明せつめいを受けて、ようや納得なっとくしたように姜維がうなずいた。

成程なるほど。そういう事ですか。それであれば、最初さいしょ仕掛しかけをかえせば、直ぐに兵を引くと言うことですね。」

 すると、それまで黙って華真達の話に耳をかたむけていた一人の将軍しょうぐんが立ち上がると、前に進み出て来た。

「ならば、かなめとなるその最初さいしょいくさ、俺にまかせて頂きたい。」

 姜維は、立ち上がった将軍しょうぐんを見て意外いがいそうな顔になった。

夏侯覇殿かこうはどの...。どうして貴方あなたが...? 相手あいては、魏の軍なのですよ。」

 すると夏侯覇は、真っ直ぐに姜維に向き合った。

「だからこそ、此処ここ志願しがんした。俺が魏の軍勢ぐんぜいを打ち払って見せれば、蜀の諸侯しょこう達も俺を仲間なかまと認めてくれるかもしれない...そう思ってな。姜維宰相殿きょういさいしょうどのも、元は俺と同じ立場たちばだったから、俺の気持きもちは分かって頂けると思うが...?」

 夏侯覇の言葉ことばに、姜維は納得なっとく表情ひょうじょうを浮かべた。

 その時、華真が夏侯覇の前に歩み出た。

「夏侯覇将軍からの申し出に対して、宰相殿の許可きょかは出た様子ですね。それでは将軍。私が一つ策を提案ていあんしたいのですが、みみを持って頂けますか?」

 夏侯覇はくちびるはしを上げると、今度こんどは華真に向き合った。

以前いぜんに俺を完膚かんぷ)きまでにたたきのめし、捕らえたのは貴方あなたの策であろう? 今の俺は、自分じぶん完敗かんぱいした相手あいて言葉ことば無視むしするほど傲慢ごうまんではない。馬超殿にもたっぷりと説教せっきょうされたしな....」

 それを聞いた華真は、一度いちどにこりと笑って策を語り始めた。

 華真が語る策にじっと耳をかたむけてた夏侯覇は、やがて大きくうなづいた。

 そしていきおいよく立ち上がり、大股おおまたでその場から退出たいしゅつした。

 その様子ようすをずっと注視ちゅうししていた姜維が、満足まんぞくそうな顔つきで華真に話しかけた。

「夏侯覇殿も、これでまこと猛将もうしょうとなったのではないですか? 以前ばんゆう蛮勇ばんゆうのみが目立めだつお方だったが...」

 姜維の言葉ことばに、華真も同意どういした。

「宰相殿のおっしゃる通りです。しかし、夏侯覇殿が蜀に付いた事は、魏もすで察知さっちしております。此処ここであの方が出て来る事も、ある程度ていど想定そうていはしておりましょう。それを分かった上で夏侯覇殿は志願しがんされた。言葉ことばは悪いですが、これは見ものですね。」


 出陣しゅつじんした夏侯覇は、魏軍ぎぐん集結しゅうけつしている草原そうげん見下みおろす丘陵きゅうりょうの上に、約千の騎馬きばひきいて布陣ふじんした。

成程なるほど。華真殿が言われた通り、戦線せんせんは前に張り出してはいるが、腰が引けているな。最前線さいぜんせん後詰ごづめの兵達へいたち間隔かんかくが開き過ぎている。何かあれば一目散いちもくさん退散たいさんという意図いとが見えいているな。そうならば、ずはまわしてみるか…..。」

 そう一人ごちた夏侯覇は、騎馬隊きばたい鋒矢ほうし陣形じんけいを命じると、すぐさま先頭せんとうに立って駆け出した。

 大将旗たいしょうき先頭せんとうにして蜀の騎馬隊きばたいせまって来るのを目にした魏軍ぎぐんは、直ぐに鶴翼かくよく隊形たいけいを取った。

 その隊形で陣の中央ちゅうおうを開け、夏侯覇達を内側うちがわに包み込むかまえに転じた。

 それを見た夏侯覇は、してやったりとばかりに手綱たづなを強く握り締めると、周囲しゅうい騎兵達きへいたちに向けて大きな声で怒鳴どなった。

「よし、注文通ちゅうもんどおりだ‼︎ ひるむことなく俺に続け。あの鶴翼かくよくは見た目よりも底が薄い。いつでも退却出来たいきゃくできるように、後詰ごづめの軍勢ぐんぜいはるか後ろに下げたかけだおしだ。真ん中を一気いっきに突っ切り、直ぐに反転はんてんして右翼うよくを崩すぞ‼︎」

 おのれ軍勢ぐんぜい数倍すうばいえる魏軍ぎぐんの真ん中に、蜀の騎馬隊きばたいがいきなり飛び込んで来るとは思っていなかった魏兵達ぎへいたちは、夏侯覇達の動きに思わず立ちすくんだ。

 鶴翼かくよく左右さゆうつばさ位置いちにいた魏兵達ぎへいたちは、鏃形くさびがた隊形たいけいで突っ込んで来た夏侯覇達を包み込むいとまもなく、呆然ぼうぜんと動きを止めたままだった。

 そのすきを突いた蜀の騎馬隊きばたいは、なんなく魏軍ぎぐん鶴翼かくよく底辺ていへんにまで自軍じぐんを押し込んだ。

 そして魏兵達ぎへいたち蹴散けちらすと、ぽっかりと空いた魏陣ぎじん中央ちゅうおうへと抜け出した。

 そして直後ちょくご一気いっき反転はんてんすると、とび獲物えものに襲い掛かるような素早すばやさと獰猛どうもうさで、今度こんど魏軍ぎぐん右翼うよくへと襲いかかった。

 夏侯覇達の勢いに押された魏軍ぎぐん陣形たいけいが乱れ、兵達はりとなった。

 右翼うよくを崩して、最初さいしょ場所ばしょまで駆け戻った蜀の騎馬隊きばたいが再び反転はんてんし、今度こんど左翼さよくを襲うかまえを見せると、魏軍兵達ぎぐんへいたちは逃げ出すように後退こうたいして行った。

 その様子ようすを目にした夏侯覇は、其処そこ攻撃こうげきめた。

攻撃中止こうげきちゅうしだ。もう相手あいて戦意せんい喪失そうしつしている。このまま後退こうたいするだろう。」

 まさ電光石火でんこうせっか攻撃こうげきだった。

 駆け戻って来た蜀軍しょくぐん騎馬隊きばたいには、ほとん被害ひがいは出ていなかった。

「華真殿の策が、まんまと的中てきちゅうしたな。しかしこの魏の無様ぶざまさはどうした事だ。天下無双てんかむそうと言われた勇猛ゆうもうさは、何処どこに行ってしまったのだ...」

 魏軍ぎぐんあざやかに撃退げきたいしたにもかかわらず、夏侯覇に笑顔えがおは無かった。


 その時、後退こうたいする魏軍ぎぐんの中から、騎馬きばに乗った将校しょうこうただ一騎いっき蜀軍しょくぐんに歩みを向けて来るのが見えた。

 魏の将校しょうこう蜀軍前線しょくぐんぜんせんとの距離をちぢめて、その姿が大きくなった。

 それを見た夏侯覇かこうはが、前線ぜんせん弓矢ゆみやかまえる兵達をせいした。

 そして夏侯覇自身が、一人だけで馬に乗って進み出た。

 夏侯覇は、蜀魏しょくぎ軍勢ぐんぜいが向かい合う草原そうげん中央ちゅうおうで、歩み寄る魏軍将校ぎぐんしょうこう対峙たいじした。

 最初さいしょに声を発したのは魏の将校しょうこうだった。

「やはり、父上ちちうえでしたか....」

 夏侯覇は、単身たんしん馬を進めて出て来た息子むすこあきれたような視線しせんを向けた。

夏侯舜かこうしゅん、何をしに出て来た? 停戦ていせんでも申し入れに来たのか?」

 批判ひはんびた口調くちょうの夏侯覇に対して、息子の方は非難ひなんまじえた視線しせんを返した。

騎馬隊きばたい先頭せんとうを駆ける大将旗たいしょうきを見た時、直ぐに父上ちちうえと分かりました。私は、父上と話をしに来たのです。どうして父上が、蜀軍しょくぐん先頭せんとうになど居るのです? 魏で随一ずいいつ猛将もうしょうと言われた父上ちちうえが、どうして...?」

 夏侯舜の問いかけに対して、夏侯覇は不機嫌ふきげんそうに顔をしかめると、吐き捨てるように答えた。

「今の魏は、俺がかつつかえた魏ではない。みかど血筋ちすじすでに絶え、覇者同士はしゃどうしが争う国にがった。」

 夏侯舜は自分が乗る馬を、夏侯覇のそばまで近付けた。

「だからこそ、今の魏には父上ちちうえのような方が必要ひつようなのです。魏はかつての魏ではないと、父上はおっしゃいましたが、それは蜀とて同じでは有りませぬか? みかどは魏へと逃げ出し、無様ぶざまな死をげております。今の蜀に何が有ると言うのですか?」

 れを聞いた夏侯覇は、今度こんどさとすような視線しせん息子むすこに向けた。

「その通りだ。魏にも蜀にも、みかどすでに居ない。しかし今の俺たちが一番いちばんに考えねばならぬ事は、建国けんこくこころざしがどうなっているかという事だ。」

 思いがけない父の言葉ことばに、夏侯舜は戸惑とまどったように眼をまたたいた。

 夏侯覇から発せられたのは、今までの父からは聞いた事もない言葉ことばだった。

建国けんこくこころざし? いったい何の事ですか?」

 すると夏侯覇は、夏侯舜が考えもしていなかった言葉ことばを口にした。

「お前は、何の為に戦っているかを考えるべきだ。余程よほど異常者いじょうしゃでない限り、人を殺すのが好きな人間にんげんなど居ない。れでは、何故なぜ戦う? 出世しゅっせの為か? 主君しゅくんの為と言うなら、今のお前に戦いを命ずる者は、お前が命をけるにあたいする人格者じんかくしゃか? かつての三国さんごくいしずえ崩壊ほうかいした今、残された者達ものたちは皆、その事を真剣しんけんに考えなくてはならない。」

 夏侯舜は、再び眼をまたたかせて、不思議ふしぎそうな表情ひょうじょうになった。

 そして自分じぶんの前の人物じんぶつが、本当ほんとうに自分の父なのかを確認かくにんするように、もう一度いちど夏侯覇を凝視ぎょうしした。

 そんな夏侯舜に向かって、夏侯覇が語り掛けた。

「人の上に立つ者というのは、人が命をける事柄ことがら意味いみを与えなくてはならぬ。その者の言う事柄ことがらが、が我欲がよくから出たものなら、その者は上に立つ資格しかくはない。れは弱肉強食じゃくにくきょうしょく覇者はしゃ論理ろんりだ。覇者はしゃは、世に安寧あんねいもたらす事は出来ぬ。必ず別の覇者が現れ、その者にほろぼされるからだ。そのようないとなみに命を張るのはだ。特に俺達おれたちのような武者達むしゃたちこそが、その事を考えねばならぬ。」

 夏侯舜の顔に、理解りかいがたいといった表情ひぃうじょうが浮かんだ。

父上ちちうえは、今までも常にそのように考え、いくさのぞんで来たとおっしゃるのですか?」

 すると夏侯覇は、首を横に振った。

「そうだと答えてやりたいが、実際じっさいにはそれは違う。かつての俺はいくさが目の前にあったから戦った。いくさの意味など考えた事は無かった。だから蜀に捕らえられた時には、死ぬ事しか頭に無かった。だが、そんな俺に戦う事の意味いみを教えてくれた者が居た。武人ぶじんが戦うのは、正しいこころざし達成たっせいする為に、そのこころざしじゅんじると言う事をだ。」

 夏侯覇の口調くちょうは、自分自身じぶんじしんに言い聞かせるような雰囲気ふんいきびていた。

「だから今、俺は此処ここに居る。信じるに足るこころざしじゅんじる為に....」

 夏侯舜は、目の前にいる父が、全く別の人物じんぶつに置き換わっているような感覚かんかくとらわれた。

「それでは父上ちちうえは、蜀には正しきこころざしを持つ、真の新しきみかどが居るとおっしゃるのですか?」

 夏侯覇は、その問いには首を横に振った。

「今の蜀にそのような方は居ない。だが、その方を探し出せる希望きぼうはある...。そう俺は教えられた。俺は、その希望きぼうける事にしたのだ。」

 父の言う事が、今の夏侯舜には全く理解りかい出来なかった。

父上ちちうえがそのような事をおっしゃるとは....。私にはいま合点がてんきませぬ。」

 すると夏侯覇の声音こわねに、謝罪しゃざいうような色がじった。

「そうであろうな。今までの俺は、お前にこのような事、一度いちども言ってやる事は出来なかった。だから、今の俺を理解りかいしろと、お前に言う積りはない。その資格しかくもない。ただ一つだけお前に伝える事がある。初代帝しょだいてい曹操そうそう様がかつて抱いたこころざしが、今の魏には残って居るかどうかを、お前自身まえじしんの眼で確かめる事が大切たいせつだという事だ。もしそれに気付きづく事が出来できれば、お前は生きる意味いみに向き合う事が出来る。」

 初めてそんな父の言葉ことばに接した夏侯舜は、益々ますます混乱こんらんした。

 そんな夏侯舜に向かって、夏侯覇は自らの心情しんじょう吐露とろするように語り掛けた。

「もしお前がれに向き合う事が出来たなら、そのこころざしをお前の麾下きか兵達へいたちに伝えよ。戦う意味いみを知った兵は強くなる。調練ちょうれんだけで、兵は強くはならぬ。先程さきほど俺が打ち破った魏兵達ぎへいたちが、それを証明しょうめいしている。こころざし無き軍団ぐんだんなど、只の烏合うごうしゅうだ。」

 そう言った夏侯覇は、これで終わりだと言うように背を向けて、蜀陣しょくじんに向けて馬をうながした。

 夏侯舜は、いま納得なっとくのいかない表情ひょうじょうでそれを見送みおりながら、父の背中せなかに向かって最後さいごの声を掛けた。

父上ちちうえ言葉ことば、良く考えまする。しかしそれは、今の父上を認める事ではありませぬ。いず父上ちちうえとは、戦場せんじぃうでまた合間見あいまみえるやもしれません。」

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