第2話
「いっ……」
「我慢」
切られた腕の傷は案外深かったらしく、今は縫合の処置中だ。
あの後、レベッカが侵入者の身元を突き止めるため軽い検分をした。彼らの言っていた『ノートル』というのは、この近辺に住む遊牧民族の名で、戸籍を持たず定住しない。荒野に点在するオアシスを求めて旅をしている流浪の民。そのため彼らのことを、国家は法律を犯す犯罪者としているらしく、生活は極めて困窮しているそうだ。「金目の物欲しさに狙ったってところかな」というのがレベッカの結論。
その後、死体を列車の外に捨て、血が止まっていないことがヴィクトルに見つかったため、医務室に連行されたというわけだ。
「……っ」
物がない、わけではない。家具らしい家具は薬棚、簡易ベッド、デスクと椅子のみ。されども薬棚には瓶が所狭しと並んでいて、消毒液から包帯、果ては縫合糸やらメスやら何に使うのかわからない専門器具が納められている。そこらの町の診療所より整っているのではなかろうか。硬いベッドに寝かされて、イアンはただ、痛みに耐える。
「なんで……縫うんだよ」
「傷が深いから」
ヴィクトルの手つきには一切迷いがないようで、定期的に痛みが走る。体の中を糸が通る不快感も耐えがたい。
「いて……」
「はい、縫合終了」
二週間か三週間後に抜糸、の言葉に、イアンはため息を漏らす。糸が通る傷にかさぶたが貼って、抜くときもまた痛いのだ。
次は白い包帯を巻き始めたヴィクトルが、珍しい、不意に口を開く。
「何が?」
「イアンが怪我をすること」
「そう?」
「うん……しょっちゅう包帯は巻いているけど、縫うのは」
「ああ……」
確かに。
「その反応も珍しい。いつもならすぐに食ってかかってくるのに」
「俺は野犬か何かかよ」
「そうじゃないのか?」
真顔で返されて、イアンは返す言葉がない。
まあ、今も昔も実際野犬のようなものだが。
「……ちょっと、昔を思い出した」
ぽろりと言葉がこぼれる。
「へぇ」
ヴィクトルは興味なさげだ。
「……なぁ、あの、少数民族が云々ってさ」
「うん」
「あの内戦も、関わってんのかな」
「そりゃ、そうだろうね」
内戦、という言葉にピクリと反応したヴィクトルは早口に答える。その話題にどうしても敏感になってしまう自分を疎ましく感じているらしく、唇を結んでいた。
ちなみに。
本当に、ちなみに、なのだけれど。
イアンもヴィクトルも、この列車の専属乗務員はみな、内戦に従事した軍人だった。
「……」
「……しょうがない。戦争っていうのは、簡単には終わらないものだから」
はい終わり、と、ヴィクトルは寝転がったイアンの顔をのぞきこむ。
「顔色はそこまで悪くないし、貧血は大丈夫そう」
ヴィクトルは少し、特異な見た目をしている。
肩まで届くまっすぐな白髪に、深い緑の瞳。肌もまた髪と同じように白く体格も華奢だ。身長は小柄なイアンよりは少し高く、女子として通じるような整った容貌をしている。ややサイズが大きいシャツに、ズボンは自分と同じ作業服。首元には瞳と同じか、それよりも色の淡い宝石をあしらったネックレスをつけているが、盗難防止のため、いつも服の下に隠している。それが、先ほどの緊急事態も重なってか珍しく外に出ていた。
「……悩み過ぎるなよ」
緑色の瞳と宝石を明かりに反射させて、ヴィクトルは身を翻す。
「あまり動きまくって貧血になったら厄介だから、今夜はここでそのまま寝な」
「ああ、うん」
「……それじゃ、おやすみ」
「うん」
裸電球が切れて、辺りが闇に包まれる。
きい、とドアが閉まる音がする。
ズボンのポケットには、血にまみれたネックレスがある。
目を閉じると思い出す。
あの日、あの時、あの場所で、何が起こったのかということは。
その日、その時、その場所にいた人間にしかわからない。
「……」
イアンは目を閉じて、意識を落とした。
意識が浮上したときには、すでに窓から太陽の光が差し込んでいた。ずいぶんと長く眠っていたらしい。起き上がろうと左手をついたら痛みが走って、そう言えば怪我をしていたな、と他人事のように思い出す。
包帯は慣れ親しんだものよりも白かった。
「あれ、起きてる」
声がして顔を上げれば、ひとりの女が扉にもたれている。
「ずいぶん長く寝てたね、身長は伸びた?」
「うるせぇ、俺はこれからなんだよ!」
「その言葉、ちゃんと覚えているからね」
腰まである長髪はつややかな黒で、瞳の色は淡い。薄青色のロングスカートに白いエプロン、という客室乗務員の基本スタイルだが、耳から下がっているピアスは巨大で、耳たぶが千切れるのではないかとこっちが不安になるほどだ。
「相変わらず派手なアクセサリーだな、ジークにどやされるぞ」
「あら残念、これはちゃんと許可済みよ」
反撃に出たつもりが、あっけなく処理される。にやり、といたずらっ子の笑みを浮かべたレベッカは、首を振ってピアスをよく見えるようにする。無数の植物か動物かわからないものが描かれていて、これまたどこかの民族の何かのようだった。
「これから通るラジゴードの伝統模様なのよ、これだから教養のないお子ちゃまは」
「お子ちゃまって……!」
「未成年でしょう?」
むっとして言い返そうとするが、事実を言われてしまっては何も言えない。はぁ、とため息を吐く。
「その仕草はもっと大人になってから似合うもの」
いつの間にか側に来ていたレベッカの指が、額を弾いた。
「なんだよ、一体!」
「ヴィクトルが一応様子を見てきてくれって。その調子なら問題なさそうね。早く食堂車行きなよ、カルミネが怒っちゃう」
食堂車の主として、乗務員の胃袋を人質に取っている大男を思い出す。あ、そういえば。
「俺、早朝から機関助士の当番だったよな?」
「知らないわよ、人のスケジュールなんて興味ない。今運転しているのはアルマイアとティムのはずよ」
興味ない、と言いつつしっかり状況を把握しているレベッカから、区間乗務員の機関助士であるティムとの勤務調整の伝言を受け取る。じゃあね、と立ち去ろうとするレベッカを、イアンは呼び止めた。
「あのさ」
「何?」
「……これ、何かわかるか?」
取り出したのは、ズボンのポケットに突っ込んだままのネックレス。
「血まみれじゃないの……」
レベッカは、イアンの手からそれをひったくる。ハンカチで血を拭うと目に見えて光沢が増し、金色の上に現れた模様はレベッカのピアスとよく似ている。
「きれいなロケットペンダントね」
「ろけっと?」
「ケースになっているのよ、ここが」
レベッカは、太陽の光をまぶしく反射させるペンダントの、金の楕円の部分を指差す。爪を引っかけると、何の抵抗もなくぱかりと開いて。
「例えば、薬とか大切な人の髪の毛とかを入れておけるの」
入っていたのは、そのどちらでもなかった。
小さな写真の中で、三人が立っている。二人の男はターバンを巻いていて、一人の女は一枚の布を体に巻き付けているような姿だった。サリーという民族衣装だと、レベッカが教えてくれる。彫りの深い顔、凛々しい眉。
「『ノートル』の兄弟かしら」
腰に曲刀はなく、代わりに玉のアクセサリーが施されていた。女の方は、金色の腕輪をいくつもつけていて、耳にはピアス。
三人は、幸せそうに笑っている。
「……へぇ」
イアンが昨日、喉元を切り裂いた男がそのうちの一人だった。最期に見た顔が顔だったので、こんな顔だったんだ、と冷静に思う。
「これ、どこで盗んだのよ」
「落ちてたのを拾った」
「嘘おっしゃい」
「俺を何だと思っているんだよ」
「野犬。野良犬」
「……」
「違うの?」
「違げぇよ!」
人がちょっと考え事をしているときにこの女は。
睨むと、おー怖い怖い、とわざとらしく肩をすくめて見せる。
「それ、捨てておきなよ」
「なんで」
割と真面目な顔で言うレベッカに、イアンは反射的に尋ねる。
「なんでって……自分を殺した相手に大切なものを奪われたら、誰でも嫌でしょ? 殺した側だって相手のものいつまでも持っていたくないわ」
「そういうもんなの?」
「そういうものでしょ」
渡されたペンダントは、血を拭われて光っている。さすがに首にかける紐の部分は赤いが、十分きれいだった。
「へぇ……」
自分が殺した相手は、生きていた。大切なものがあった。自分と同じように。
……イマイチしっくりこない。
「……まあ、あんたは人間として大事なものが欠落してるからね。私も人のことは言えないけれど」
レベッカは部屋を出て行こうと、ドアのノブに手をかける。
「自覚はあるんでしょ?」
「まぁ、それなりには」
「ならまだマシよ。何も考えず、そのペンダントは捨てなさい。今すぐに」
最後は強い口調だった。きい、とドアが軋んで閉まる。
命が大事だとか、人殺しがいけないことだとか。そういうことは理解できる。だけども飲み込めはしない。
自分と相手は同じ人間なのですから、殺してはいけません。
命は尊いものなのですから、奪ってはなりません。
同じ人間なんだから。命は尊いものなんだから。
それが何?
「……」
人は死んだら死体になる。そのまま放っておけば腐っていって異臭を放つ。蠅がその上を飛び回り、ウジが肉を食っていく。
それ以上でもそれ以下でもなく、ただそれだけ。
イアンはペンダントをポケットに入れて、ベッドから立ち上がった。
食堂車は豪奢な造りになっている。
赤いカーペットが一面に敷き詰められていて、白いクロスのかけられたテーブルがいくつか置いてある。明かりは壁際に設置されているろうそくで、天井には小さなシャンデリアが光っており、窓の外を見なければ、どこかの高級レストランのようだ。
乗務員も乗客と時間をずらして、食事はそこでとることになっている。
そんな食堂車のひとつ手前が、調理兼食糧貯蔵車両だ。
貨物車を改造した名残が残る鋼鉄の重い扉を力任せに引くと、おいしそうな何かのにおいがする。
主であるカルミネが、大きな鍋で何かをかき混ぜていた。
「よう、腕の調子はどうだ?」
「ここの扉、どうにかならないのか?」
力を入れたがために痛みが走った腕をさすりながら、振り返らない後ろ姿に尋ねると、嘲笑が返ってきた。
「どうにかなるなら、とっくの昔にどうにかしてるさ」
昼飯用のスープができるから、もう少し待ってろ、と言われたので、奥の食堂車へ移動する。鋼鉄の扉を今一度開けて、閉めて。
ここから先は一般乗客のいる客車なので、扉は軽い。
すりガラスをスライドさせて中へ入ると、ロウが乗客の昼食準備をしているところだった。
「おはようございます」
昨晩のことは全く感じさせない振る舞いで、てきぱきとテーブルに新しいクロスをセットしていく。
イアンは、まだクロスのかけられていない奥の席に座った。
特にやることはないので、窓の外を眺める。
そこは荒野だった。現地の言葉で『赤い平野』と訳されるその場所は、確かに露わになった岩肌が赤い。浸食から免れた大岩がいくつも残っていて、地平線をガタガタとゆがめていた。
一面がその景色で、植物も動物もほとんど見られない。はじめは広い大地に感動したものだが、慣れてしまえば退屈この上ない景色だった。
ガタタン、ガタタン、と、規則正しいリズムで揺れる列車もまた同じ。鬱陶しく感じた音は、今ではただの日常音に、しかもなくなると落ち着かないBGMとなっている。
「……広い大地、ねぇ」
「私は好きですよ」
不意に声を上げたのは、支度をしていたロウ。一切手元から視線を動かさずに、かすかなイアンの呟きに反応する。
「飽きないのか?」
「さあ、飽きている、というのがどう意味かはわかりませんが。とにかくずっと見ていられます」
「それは飽きていないって言うんだ」
レベッカと同じ客室乗務員として働くロウは、光の加減で暗い青に見えるショートヘアを揺らして、そうですか、と単調な声で言う。
薄青のロングスカートに白いエプロン、袖は肘の辺りまでまくっていて、細い腕が見えている。その上にある痛々しい傷跡もしかり、だ。本人は気にしていないらしいし、イアンたちも見慣れたものなので別にどうだっていい。まるで子供のような様子だが二つ年上で、それなのに自分にも敬語を使ってくる。
敬語の方が落ち着くらしいが、使われる側のこっちは落ち着かない。これまで敬語を使うことも使われたことも無かったからか、なんだかくすぐったい。
「地平線がずっと見えるので面白いと思います。いくら歩いても進んでも、たどり着くことはありません」
「よくわからない」
「そうですか」
わからない。
何が?
全てが。
「ロウ」
「何ですか?」
「ロウは、人を殺した時、どんなことを考えてた?」
ポケットからロケットペンダントを取り出して机に置く。まだクロスがかけられておらず、透明のガラスの天板に置かれたそれは、カランと小さな音を立てる。
「……あまりはっきりとは覚えていませんが」
ロウは手を止めて、じっと床の一点を見つめる。イアンは静かに、半開きになったままの口から言葉が出てくるのを待った。
「あれ……思い出せません」
「さっぱり?」
「さっぱりもはっきりも……全く、です」
その後もしばらく無言で考えていたが、結論は、わからない、だった。
「わかりません。私、何を考えていたんでしょう?」
「俺が訊きたい」
はぁ、とため息を吐く。すると今度は、ロウが同じことを訊いてきた。
「イアンは何を考えていましたか、敵を殺すときに」
「……わかんないから、訊いてるんだよ」
昔のことも昨夜のことも、あまり覚えていない。
ああやって侵入者を仕留めたその瞬間、自分は何を思っていたのか。何を考えていたのか。
命を奪ってごめんなさい。俺だってこんなことはしたくない。だけど俺は乗務員で、積荷を無事に運ぶことが仕事なんだ。
そんなことは、カケラも思っていなかった。
人殺しは楽しいな、快感だ、すっきりする、これが俺の居場所で安住の地、できることならばずっとこうしていたい。
そんなおかしなことも、カケラも思っていなかった。
じゃあ、何を思っていたんだろう。
「わからない……」
「私にも、わかりません」
また呟きを拾ったロウは、動きながら言う。
「わかりません。何もわかりません」
イアンに伝えている、というよりは、自分自身に言い聞かせているようだった。
「わかりません。わかりたくありません」
わかりたくない。
理解したくない。
きっと理解してしまえば、動けなくなる。自分の背負っているものの重さに気づけば、辛くて苦しくて、何もできなくなる。
だから。
きっと、そんなことを思っているんだろう。
そしてそのことを人はきっと、目を背けていると言うんだろう。
イアンももしかしたらそうなのかもしれない。何もかも理解している、わかっている。だけれど、逃げて、目を背けているだけ。
「……というか私は、わからないままでいたいです」
自分が背負わなければならないものに。
ロウは仕事をこなしながら、声のトーンも抑揚も変化せずに口にする。
「そっか」
また流れる沈黙の時間。広い大地に、耐える間のない走行音。
チリンチリン、と、厨房の方からベルの鳴る音がした。
「カルミネの料理ができたみたいなので、持ってきますね」
ロウは、単調な口調でそう言って、奥へと引っ込んでいく。
一人になったイアンは、頬杖をついて外を眺める。
遥か遠く、砂漠の真ん中に緑が生い茂っているオアシスがあるのを見つける。そこは文字通り『楽園』で、それほど大きな町ではないが賑わっているはずだ。最後に訪れたのは、三か月くらい前だったっけ。
次の駅は、そこにある。
そして、そこは『ノートル』の大部分が暮らしている町だ。
湯気の立つスープを持つロウが出てきたので、イアンはテーブルに置いていたネックレスをポケットにしまった。
To be continued
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