第136話
夢遊病者にも似た足取りで私は歩いた。歩くたびに太腿に何かが伝わり落ちる。それが何であるかもわかっているし、どうでも良いと思った。
本能に従って下っていくとアスファルトの道に出た。灯りもなくお印程度の月明かりで路面が見えるくらい。車一台がやっと通れるほどの道だ。
いったいここはどこだろう。
潤ちゃん‥‥こんなことになっちゃった。
私は独り言を呟きながら再び涙を拭う。聞こえるのは私のすすり泣く声と頼りない足音だけ。また太腿に何かが伝わる。
突然、笑いが込み上げた。
妊娠する。それも見も知らぬ誰か。だけど、と私は歯を食いしばる。私が授かるのは潤ちゃんの子供だけ。
そうでしょ?‥‥潤ちゃん。そうだって言って‥‥‥。
絶対許さない。許さないと繰り返した。それはあいつらのことじゃない。もうどうでもいい。そんなことより私の中で絶対一つになんかさせない。
そう呟きながらどれくらい歩いただろうか。ふと耳に川の音のようなものが聞こえた。
木々が風で揺れる音かと思ったけど確かに水の流れる音。水でも川でもどっちでもいい。
そう‥‥‥もう‥‥どうでも良い。
「お母‥‥さん」
俯いて口に出すとまた涙があふれて来た。亡くなった時、折れたと思った翼は傷ついただけで、まだ飛べると思っていた。でも今は両方とも折れてしまった。
私はもう羽ばたくことは出来ない。
突然、吹いた風が髪を乱しても、下げたままの手を挙げる気力もなかった。辛うじて動くのは足だけ。自分でもなんで動くのかわからない。
この真っ暗な道の先には何があるんだろう。そんなことを思った時、一軒の家の灯りが見えた。
淡い光が窓から零れている。中から温かい笑い声が聞こえる。三人の子供たちと遊ぶ男性。
潤ちゃんだ。
私は夕飯の支度をしながらそれを見て微笑んでる。最高の幸せだ。子供たちが何か言ってる。きっとあれをやれというのだろう。私は手を止めて両腕を広げ子供たちの元へと駆けていく。すると子供たちが同じように手を広げ私の後をついてくる。最後には潤ちゃんも同じように後から来た。おかしい。私はつい笑ってしまった。
笑った途端に、灯っていたマッチが燃え尽きたように目の前が真っ暗になった。
夢は‥‥‥結局、夢だった。
「‥‥‥ありがと」
喋れる元気がまだ残ってるんだと思った。でもお礼を言わなきゃ。こんな素敵なものを見せてくれたんだもの。
川の音がさっきよりもよく聞こえる。何気に視線をあげると何かがぼんやりと見えた。
橋だ。それも小さい橋。
私は橋の真ん中まで歩いて、腰の高さぐらいしかない欄干に手を添える。どうせ何も見えないだろうと下を見るのは止めた。耳を澄ませる。高さがあるのか、水の音は遥か下の方から聞こえてくる。
私は靴を脱ぎ、僅かに残った力を振り絞るように石で出来た欄干の上に足を掛け、ゆっくりと立ち上がった。
それから両腕を徐々に広げる。ここでもう力を使い果たした。
だけど‥‥‥私には見える。
はっきりと。両側にしっかりと翼がある。
折れてなんかなかった。スローモーションで前へと傾く。
全身が風に包まれたとき、私は笑顔になって心の中で話しかけた。
ほら‥‥お母さん‥‥ちゃんと飛べたよ!
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