第108話

「えっ?誰?」


 猫じゃないと思ったのか、潤ちゃんはいつもと違う声で訊いた。私はゆっくりと見える場所に出た。



「ゆ‥‥由佳理!?」

「‥‥待ってた」


「待ってたって――。いつから?」


 五時半くらいと話すと潤ちゃんは、もう八時だぞと呆れながらも驚いていた。ひとまず作戦は成功。ただ、私の膀胱も限界に近かった。部屋に入れてもらってコーヒーで良いかと訊かれても、先にトイレとしか答えられなかった。


 ほとんど座ったと同時で間一髪。もの凄い勢いで便器壊れるかもって心配した。もちろん加減なんか出来ない。おまけに慌て過ぎて水を流して音を消すことも忘れてしまう。この分じゃしっかり聞かれちゃったかもしれない。



「コーヒー淹れておいたよ」


 一安心して部屋に入ると部屋着に着替えた潤ちゃんが座るようにと手を差しだした。


「しっかし、驚いたよ。来るんだったら来るって言ってくれれば。っていうか自転車なんかで来なくても迎えに行ったのに」


「言ったら驚かせないでしょ?」


「そりゃそうだけど、もっと遅かったらどうする気だったん?」


「実はそろそろ帰ろうかなって思ってたところだったの」


「いつもならとっくに帰って来てるんだけどさ。今日はちょっと会議があって―――」



 聞きながら私はコーヒーを啜った。一口、二口と啜るたびに身体が温まっていくのを感じる。


「そういえばご飯は食べた?」


 黙って首を振ると、潤ちゃんは呆れたような笑いを見せ、


「今夜はカップ麵にしようと思ってたんだけど、それでもいい?」と訊いた。



 レストランとかも良いけど、潤ちゃんと食べるカップ麵も悪くない。でもいずれは私の手料理をなどと密かに考えたりもしていた。


 食べ終わって一息ついてから、潤ちゃんは送っていくからと私の自転車を車のトランクに載せた。とは言え子供用のサイズでもないので、車の外にだいぶはみ出してしまい、トランクも閉まらない。このままでは走れないからと最終的には閉まるところまで閉めて紐で結んだ。なんだか面倒を掛けちゃったみたい。


 助手席に座って走り出すと、自転車で来たのが嘘のように思える。やっぱり車って良い。



「ただいま」


「あっ!おかえり。ちょっと出かけてくるってメモはあったけど、何時に帰ってくるのかもわからないから先に食べて片付けちゃったわよ。もし食べるんなら―――」


 お母さんの言葉に首を振ってから居間に腰を下ろした。


「こんな時間まで自転車でどこに行ってたの?」


 ふと部屋の壁の時計に目を移す。九時半になっていた。



「なに?デート?」


 お母さんの何気ない一言にドキッとしつつも、私は冷静に別にと応えた。


「それもそうね。学生ならともかく十九にもなって自転車でデートなんて馬鹿な子は居ないわよね」


 そのバカな子は目の前に居るのよというのを我慢して黙っていると、


「あら?由佳理ちょっと鏡見て来なさい」と、お母さんは自分の唇に指をあてる。


 もしやと私は慌てて腰を上げる。


 車から降りる時、潤ちゃんと軽くチュッとしたけど、今回は至って軽めだったと鏡を見て思った。


 お母さんにしてやられたと。

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