第99話

 電話が鳴ったのは六時半だった。ほんの数秒で電話を切った。


「また、茜さんという人と出掛けるの?あんまり迷惑かけちゃダメよ」


 着替えが済んだ私を見て、お母さんが一言告げる。


「わかってる。だから今夜は私が奢ってあげるつもりでいるの―――」


 実際問題、名前を借りている以上、今の台詞を実行に移さなければならないと思った。これから向かうと聞いただけなので、どのくらいで来るのかわからなかったが、私は家を出て待ち合わせの場所に向かった。掌に息を吹きかけてチェックする。デートの前の歯磨きは必須。特に今日はいつもより念入りだ。



 敷地の中にブルーバードは無かった。私はそこに一人佇み深呼吸を繰り返す。吸い込む空気がちょっと火照った身体に心地いい。


 ヘッドライトの灯りが道路から逸れてこちらに向いた。八神さんだ。私を見つけて軽く手を挙げた。


「会社から電話したの?」


 私は初めて見るネクタイ姿にトキメキを覚えた。狙ったのかはわからないけど、こういう姿にけっこう女は弱い。


「一度帰ろうかと思ったんだけどね。面倒というのか真っすぐ来ちゃったよ」


 心なし見つめ合うことに抵抗も感じていたので、営業スタイルは目をネクタイに向けられるから良かった。控えめなブルーのワイシャツに紺色にストライプの入ったネクタイが爽やかな印象を与えてくれ、八神さんにとても似合ってる。時々、その結び目などをじっと見つめたりした。


 食事を済ませたあと車に乗ると、俺んちに来ないかと一言。黙ったまま私は頷いた。


 二十分くらい走って、右にウインカーを出した時、


「この辺、良くわかるんじゃない?」と八神さん。


「ええ。サクジョの割と近くだから」


 この道は何度も自転車で走ったことがある。ただ、酒屋の脇の路地は入ったことはない。



 そこから少し直進して街灯が一つ灯った角の細い道を曲がって、さらに五十メートルくらい進んで左に曲がると前方に薄緑色の建物が見えた。住宅街というよりも周囲は畑や倉庫などが多く、途中からはほとんど灯りらしい灯りは無い。自転車で走るには怖い感じだ。


 何軒かの人は帰っているらしく、窓には明かりが点いていた。白線の枠の中に車を止めた八神さんは、ここだよとひと言呟いてドアを開ける。そのあとに続いて私も一緒に歩き出す。何か書かれていると目を向けると、僅かな灯りの中に『レ―ヴ』という文字が見えた。アパートの名前だろう。


「もっと通りに面したところがって思ったんだけど、場所が場所だからここは割と安くてね―――」


 建物の脇にある外階段を上りながら八神さんは話した。コンコンと靴音を響かせて上った最初にある部屋が住まいのようで、取り出したカギで手早く扉を開ける。



「ちょっと散らかってるんだけど我慢してくれよ」

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