第85話
「で、いつから付き合ってるん?」
すぐに八神さんのことだと分かった。
「実は、あの日からなんです」
「あの日?」
茜さんが手と口を止める。以前の出来事でも振り返っている顔で、意味を取り違えたらしい。
「あの夜からなんです」
それを聞いて茜さんはむせ返った。
大丈夫ですかという声に手を振って、お茶を一口飲むと茜さんは息を吐き出した。
「あの日からか~。ふ~ん」
茜さんはそういうなり事務所のどこかを見つめるようにしてニヤッと笑う。
「で、どこまで行ったん?」
「どこまでって‥‥市外っていうのか‥‥」
「もぉ~、そんなこと訊いてないわよ。男と女の話!」
「ちょ‥‥ちょっと、いくらなんでもその日ってことはないでしょう!」
それもそうかと茜さんはまた箸を動かした。でも、と私は茜さんの言葉をご飯と一緒に噛みしめていた。いずれは茜さんの言う男と女の関係になる日が来るのかもしれないと。
「ってことは、これから由佳理をご飯にも誘えなくなるってことかな~?」
ご心配なく、と私はニコって微笑んだ。
二着のツナギを持って帰宅すると、お母さんがそれを見て眉間に皺を寄せた。
「も~っ!乾きにくいから毎日持って来なさいって言ってたでしょ。一度に二着も持って来て、ツナギは干すんだって大変なんですからね」
以前にもうっかり忘れて言われたことがある。朝までに乾かなかったら冬のツナギを持っていこう。動くとまだまだ暑いだろうけどそれも一日だけの我慢。
夜の九時。私は部屋に電話を引き込んで免許証の裏に差し入れた名刺を取り出し、裏に書かれたダイヤルを回し始める。八神さんにもらった名刺だ。
表には『(株)
聖南産業は新建材などを取り扱う会社で、主に工務店などを相手に取引しているのだとか。ただ、工務店もいろいろで大きな会社もあれば、大工さんのような個人経営の店もあるらしい。そのため時には現場で売った商品を運び込んだりもしなければならないと八神さんは帰りの車の中で話していた。営業って言っても大変なんだなって思った。
最後の番号が戻り終えると、すぐに呼び出し音も鳴らずに声が聞こえた。
《もしもし》
受話器から穏やかな声が耳に届く。
「もしもし、川島です」
《わかってる》と八神さんは笑った。きっと電話の前で待っていてくれたのだろう。
「あ、この間はごちそうさまでした」
私は咄嗟に思いついた言葉を口にする。何から話していいものかと頭の中は混乱していた。初めて掛けたあの夜とは違った混乱。でも妙にそれが心地いい。
《どう?仕事は忙しい?》
「火曜だから、そんなでも―――」
結局話したことと言えばそんな他愛も無いことだけ。はた目にはきっと無駄な電話料だと思われるに違いない。通話を終えた私は布団に横になってまた名刺を見た。
今度いつお店に来てくれるだろうって思いながら。
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