第80話

「お車はNA(エヌエー)ですか?それともターボですか?」


 八神さんがターボと言ったので、私はさらに説明を続けた。


「ターボ車ですと軸の部分にあるベアリングをグリスではなくオイルで満たしているので、通常よりもグレードの良いオイルをお勧めしています」


 私の話を聞きながら八神さんは驚いたとクスクス笑い始めた。


「まさか、こんなに車のことを知ってるなんて思わなかったよ」


 つい半年前までコーヒーを淹れていたのだから無理もない。


「実は店長に教えられたんですよ。ターボのお客さんにはこう言えって―――」


 八神さんだけに聞こえるような声で私はそっと呟いて笑う。なるほどと八神さんは一度研修中のバッジに目を向けてから頷いた。


「うちにもオリジナルのオイルがあるんですけど、ここだけの話、安いだけであまりお勧めじゃないんですよ」


 ひそひそ話ついでに話すと、八神さんの表情はさらに崩れた。私も久しぶりの感覚がすっかり消えていて、妙な距離感を覚えた。その後、オイル缶を手にカウンターの端の席で作業の受付をした。


 受付をする際、お客さんには車のナンバーと車種名と色、そして名前を専用の用紙に記入してもらう。ただ、今回は私がペンを取った。先に苗字を書いてから訊いたナンバーを書き込む。


「ブルーバードですね。え~とお色の方は?」


「白です」という八神さんの声にペンが止まった。


 白‥‥。不意に茜さんの言葉が蘇る。


「何か‥‥変というか、やっぱり赤をイメージしちゃうかな?」

「いえ‥‥」


 私はすぐにペンを走らせた。それからピットの混み具合を聞き、待ち時間は一時間ほどと八神さんに伝える。


 店内で時間を潰してると言ってから、突然言い忘れていたように「元気そうだね」と八神さんは穏やかに笑った。


「それだけが取り柄ですから」


 私も微笑み返す。それから少し沈黙を挟んでから、


「その‥‥なんて言うか‥‥」


 周りに目を走らせてから、八神さんは言い辛そうに声を出した。



「もう‥‥彼とか‥‥」


 言葉はそこまでだった。私にはそれだけでも何を言わんとしているのか察しがついた。普通のお客さんなら「ご想像に―――」などと女性のお決まりの台詞で返すのだろうが、私は否定を告げるかに少しだけ左右に顔を振る。自分でも穏やか過ぎる表情だと思った。



「仕事って何時頃終わるのかな?」


「片付けとかしてだいたい七時半くらいですかね」


 私の言葉を聞いて八神さんは目を見て言った。




「その時間に駐車場で待ってていいかな?」


 どうしてと訊くのが回りくどいとでも思ったのだろう。私も目を見て囁いた。


「なるべく早く行きますから」




 白いブルーバードは駐車場の隅に止まっていた。私の姿に気付いて八神さんが一度手を挙げてからどうぞと横に向ける。ドアを開けて「お待たせ」と私は一言。


「早かったね」


 助手席に座ると八神さんは私を見た。閉店後の駐車場は照明も落とされているが、看板の照明は点けたままなので、表情くらいは十分確認できる。


「急いで着替えて来ちゃった」


 そう言って私は声を弾ませた。持ち帰って洗濯するツナギはロッカーに置いてきた。そんなの持ってこれないし、自転車の籠に入れて置くのも心配だ。


 ツナギは替えもあるので明日にしよう。

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