第69話

 まずは家の周辺を運転して慣れて来たら、お母さんを乗せて買い物にでも行ってみようか。それからもっと上手になったら山道を走って、最後は亜実ちゃんと紗枝ちゃんに会いに海まで。と膨らんでいた夢は徐々に萎みだす。


 そうだった。肝心の車が無かった。吐息をつくと真っ白な車が脳裏に浮かんだ。小池君の新車だ。でも私は自分の車は自分で手にする。小さくても少しぐらい古くても構わない。安藤君のように働いて必ず。


 そして、順ちゃんに渡せなかったキーホルダーを自分の車のカギに付ける。


「いらっしゃいませ!」


 来店したお客さんを私は明るく迎え入れた。





 自動車免許取得は大きな出来事だったことには違いない。暇があると私は真新しい免許証を取り出して眺めた。その日の夜は宿題と一緒にテーブルの上に出していた。


 トントン!という音に私がハイと答えるとスーッと引き戸が開く。兄貴だった。


「あれ?今日は飲みに行ってないんだ」


 数日前に帰って来て何度か顔は合わせたものの、晴れて堂々とお酒が飲めるようになったからか、地元の友達と飲みに出掛けることも多く、帰宅は深夜になることもあった。


「ま~、これからっていうのか。それで母さんにもチラッと聞いてたんだけど、忘れないうちに免許とやらを見せてもらおうかなって」


「飲むとみんな忘れちゃうもんね」


 それを言うなという顔をして、兄貴は差し出した免許証をじっと眺めた。


「由佳理が免許をね~!この間まで一緒に風呂入ってたのにな~」


「もぉ~っ!それっていつの話よ。それに兄貴だって向こうに行く前に免許取ったでしょ。そんな珍しそうに見て」


 兄貴の手から免許を奪い返して再びテーブルの上に置いた。


「免許は取ったけど、ずっと運転してないからさ。いつだったか向こうの友達の車をちょっとだけ運転させてもらったんだけど、教習所の通い始めみたいだったよ」


「やっぱり乗ってないと鈍っちゃうんだろうね」


 決して他人事ではないと私は置いた免許証に目を移す。


「こっちに帰ってきて仕事でも始めたら車がないと不便だろうから、ローンか何かで買おうとは思ってるけどな」


「車、あったら便利だろうね」


「ああ。彼女でも乗せて山道をドライブしたり、海まで行くなんてのもいいだろうな」


 この辺はしっかり兄妹なんだと笑いそうになった。


「それで、ちゃんと帰って来られそうなの?」

「えっ?っていうか母さんと同じこと言うなって」


 兄貴の声に今度は噴き出してしまった。家族って面白い。


「母さんに顔向け出来ないからさ。一応四年で卒業しようとは思ってる。あと一年ちょっと―――」


 何かを考え込む素振りを見せてから、私の顔をじっと見た。


「ってことは由佳理の方が先に働き出すってことか」

「私が順調に卒業出来ればの話だけど」


「いやいや、サクジョ留年ってのは有り得ないだろ。そんなことにでもなったら、それこそ恥ずかしくってこっちに帰って来られなくなるぜ」


 呆れたような兄貴に私は口を尖らせた。でも本当にそんなことになったら大変だと私は気を引き締めた。あと半年。


「いずれにせよ、働くようになったら頼むよ」


 そう言って兄貴は人差し指と親指で丸を作った。


「お金なんて貸さないわよ。サクジョ留年なんて馬鹿にしたんだから」


 プイと横を向くと兄貴はしまったと頭を掻きながら部屋を出て行った。


 その二日後、兄貴は岡山へと戻って行った。

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