第62話

 教習所の予約はバイトの前の午前中か、バイト後の夕方に入れるようにしている。取れなかった時には宿題と高校三年の夏休みは何かと忙しい。


―――「縁石に乗り上げて車壊すんじゃないかって思った奴もこうして道路を走れるようになるんだからな~」


 助手席に座る教官が笑いながら私に顔を向ける。前方と左右、そして後ろに神経を奪われている私には声の方向を見る余裕はない。今日の路上の教官は原さんだ。


「あ~そこそこ。丸いミラーがあるだろ。ああいうのは飾りで置いてあるんじゃないから一応確認するように」


 狭く見通しの悪い十字路を走っていた時、車や自転車が映るからと教官は前方に指をさす。自転車に乗ってる時もミラーはよく見ていた。でも今はエンストこそしなくなったもののハンドルを握るのが精いっぱい。


「こういう両方に止まれの標識があって道幅が同じような十字路はけっこう事故が多いから気を付けるように」


 左方向には車が一台停止していて、前方からも一台近付いてくる。右側には車の姿はない。私は停止したまま動けなかった。タイミングがわからないのだ。それでも教習車両ということで譲ってくれたらしい。行くように言われアクセルを踏む。


「一人で運転するようになると、こんな感じにはいかなくなるからね」


 教官もすぐに念を押す。ハイと答えた。


「大学かなんか行くの?それとも就職?」

「就職しようと思ってます」


 一度頷いてから「大学なんか行っても遊んでるだけだからな。ま~これは人にもよるんだろうけど」と原さんは続けた。


「うちの倅はまだ中学生なんだけど、大学くらい行かせないとって、うちのが躍起になっててね。俺の安月給を考えると今から頭が痛くなるよ」


 笑いながらも切実な思いが声に感じ取れた。同時に兄貴を大学に行かせているお母さんの苦労も伝わって来た。おまけに私の免許のお金といくら払わせればいいんだろうって気持ちも沈む。働き始めたら少しずつ返すからね、と私はハンドルを強く握りしめた。


 原教官とは何度も顔を合わせている。特に声を荒げることも無く指導も的を射ている感じだ。熱血指導の教官も中にはいると聞くし、かなり前には教習中に太腿に手を当てて関係を迫ってクビになった教官も居たなんて話も聞かせてくれた。


「人間もっていうか、教官にもいろいろいるからね~」


「原さんは真面目一筋って感じですか?」


 私の問いが思いがけなかったのか原さんは笑い声をあげた。


「一筋ってわけでもないよ。よっぽど酷けりゃ怒鳴ることもあるからね。それも後々のことを考えてだから。でもさすがに太腿触ったりホテルに行こうなんてのは言えないよな~。もしそんなのでクビにでもなったら、即離婚届を突きつけられるだろうな」


 何事もなく務めを果たすのが一番と原さんはしみじみ語った。



「じゃ、そこを左折するから早めに合図出して―――」

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