第37話

「ちょっとってどれ‥‥‥。もしかして‥‥着けないで?」


 予想もしなかったことに目も声も大きくなった。私の問いに梨絵は、わからないと首を振る。処女を失うような時に、いちいちチェック出来るほどの余裕はないだろう。ただ、痛みに耐えながらその時を待つしかない。あるいは気のせいかと思いかけた時、


「あとで…ちょっとドロッとしたのが‥‥だから‥‥」


 梨絵は蚊の鳴くような声で呟いた。軽い眩暈を覚えた私は目を見開くだけだった。生理の前ならそろそろ良いかななんて思ったこともあったけど、思いがけない話にただ項垂れて黙り込むしかなかった。


「どのくらい‥‥無いの?」


「‥‥二週間くらい」


 梨絵の生理は割と規則正しく来ているのを私は知っている。だからなのか無性に落ち着かない。妊娠?いやそれはない。どうして無いって言える。まるで禅問答だ。


 万が一の時は力になるからと言って梨絵をひとまず帰した。せっかく梨絵との一件を胸に仕舞いこもうと決めかけたのに、消えかけた火がまたモワモワと煙を上げ始めた。



 九時ピッタリに電話が鳴った。それを待っていたように素早く受話器を上げる。でも声が出なかった。


《‥‥もしもし》


 違う相手でも出たのかと順ちゃんの声に動揺が混じる。


「‥‥私」


《なんだ。ビックリしちゃったよ》


 今回も話したのは二、三分だった。月曜に会えないかと訊かれたので倉庫のところで待っててと電話を切った。


 あれだけ暑い日が続いたのに九月に入ると朝晩は急に涼しくなる。寒いことを理由にして今夜の装いはパンツルックを選んだ。何かを考えるように歩く。倉庫までが少し遠く感じる。やがて暗がりの中にぼんやりと浮かぶ車が見えた。


 ドアを開けても車内に明かりは灯らない。目立たないようにと点かないようにしているのだとか。車に乗り込むと待ちわびたとばかりに順ちゃんが顔を寄せて来る。私はそれを右手で制した。意味が分からないと順ちゃんが動きを止める。ずっと迷っていた。でも口は止められなかった。



「梨絵‥‥ちゃんの‥‥‥もらってあげたんだって?」


 暗がりの中でも身体が強張るのを感じた。いきなり核心だから無理もないか。


「もらって‥‥‥って何を?」


 惚けても口調はぎこちなさで溢れている。


「いいの、惚けなくても。みんな梨絵ちゃんが話したから」


 この一言はダメ押しとも見えて順ちゃんは寄せていた身体を元に戻し、そっか、と吐息と共に呟いた。


「どうして着けなかったの?」


 やんわりと訊こうと思っていたのに心と口は別だったようだ。


「まぁ‥‥なんて言うか。物がなかったというのか‥‥それでこれから買いに行ってくるなんて雰囲気でも‥‥って感じで」


「だから中に?」


「いや‥‥訊いたら大丈夫だって」


 その一言で頭に血が上った。


「初めての子が外に出してなんて言えると思ってるのっ!」


 車内に響く声に順ちゃんがビクッと震えた。


「いや‥‥それは‥‥なんて言うか」


 歯切れの悪い言葉が耳に届いた時にはドアのノブを掴んでいた。スッとドアを開けて外に出た私は、


「もう会わないから!電話も掛けてこないで!お店にもね!」


 バタンと激しい音を立てた後、足早に歩き出す。引き止める言葉は無かった。土下座でもして謝り続けてくれたなら、あるいは車から降りなかったかもしれない。



 順ちゃんのバカッ!と家に向かいながら何度も声に出した。

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