第26話

 楽しかった時間も一転、あれこれ考えだすにつれ身体を不安が包み込んでいく。こんなことなら降りる時に電話番号を書いたメモでも渡しておけばよかった。仕方ない。今度の日曜日の夜にラーメン屋まで歩くか。一旦それで納得はしてみたものの今の私の気持ちを考えると一週間はひと月にも感じるほど長い。


 耐えられるだろうか。いや、一週間なんてすぐだ。勉強!勉強!


 気分を切り替えようとテーブルに宿題を広げてはみたが、思った通り手につかず目の前の数字が電話番号に見えてきてしまう。


「今日はお休みだから、明日の夜に行こう」


 そう呟きながらメモを取り出した私はサインペンでスラスラと自宅の番号を書き始めた。このくらいの調子で宿題もはかどれば最高なんだけどな。我ながら呆れて苦笑が漏れてしまった。




一学期の教科書に『善は急げ』なんてフレーズがあったことを思い出す。私は火曜の深夜に再びラーメン屋まで向かった。月曜に会ったばかりなので今村さんが驚くのも無理はない。だけどメモを渡しに来ただけだからとその日は帰ることにした。


 家の近くまで今村さんが送ってくれる。車から降りる時、チュッと軽くキスをした。おやすみのキスだ。


 メモに記したのは番号だけだった。だから掛けるなら何時頃が良いとも伝えた。ひとまずこれで連絡の手段は確保した。それが何より私を安心させる。


 部屋に引き込んだ電話が鳴ったのは水曜日の九時だった。時間通り。相手はもちろん今村さんだ。もう少し早い時間でも良かったけど、お店が忙しい時間だからと九時に変更した。


 私は電話を前に五分前くらいからそわそわしている。いい緊張感。お店の電話ということもあって、話していたのはほんの二、三分だった。それでも声が聞けただけ良い。明日も掛けるからと電話は切れた。木曜日の九時ピッタリに電話が鳴る。金曜日も。


 土曜日は休みの前でお店も忙しいのだろう。声も落ち着きがない感じだった。そんなにしてまで掛けてくれることが嬉しかった。


 受話器をちょうど置いた時、ノックの音が聞こえ引き戸が開けられた。



「電話中か?」


 兄貴だった。一瞬、白のTシャツにジーンズだったので今村さんが来たのかとびっくりした。


「もう、いきなり開けないでよ。レディの部屋なんだから」

「わりぃ!ってどこにレディがいるんだよ」


 反省の色もなく兄貴は噴き出した。


「それよりいつ帰って来たの?」

「あ~、ついさっき」


 そう言いながら久しぶりに見る妹の部屋を物珍しそうに眺めている。それから不意にテーブルの上のノートを取り上げた。


「ちょっと!それダメだって!」


 慌てて取り戻そうとしたが、兄貴の手の方が早く、取られまいと頭上にあげて書かれた文字を読んでいる。


「今村由佳理って、いつからお前今村になったんだよ。それもこんなに何十個も書いて。漢字練習か?」


「どうでもいいじゃない、そんなこと」


 むきになる私に兄貴も何かを察したようだ。あるいは顔でも赤かったのか。


「彼氏でも出来たんか?」

「兄貴には関係ないっ!それより兄貴こそ彼女は出来た?」


 咄嗟に同じ質問をお返しとばかりに振ると、兄貴は手にしたノートを閉じて私に差し出した。


「俺は勉強一筋だから、女は二の次」


 然程興味もないような素振りでまた部屋を眺め始めた。

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