02 カルロ・ゼン

「ヴェットール・ピサーニを死刑に?」

 カルロ・ゼンは、自ら率いるヴェネツィア第二艦隊の旗艦でそれを聞いた。

 カルロは手に持った陶製のアンフォラ容器から、葡萄酒を注ぐ。

「で?」

「え?」

 ヴェネツィア本国からの使者をしり目に、カルロは振り向きもせず、葡萄酒を呷ってから、つづきを促した。


 ここは東地中海。

 カルロの役割は、この海での私掠。

 彼はこの海でジェノヴァの勢力を襲い、暴れ、撃砕していた。

 ヴェットールが正攻法でジェノヴァ艦隊と戦い、一方で、カルロが東地中海を荒らし回ってジェノヴァの補給を、兵站を断つ。

 その二正面作戦は、ヴェットールの堅実な用兵とカルロの放埓な奇襲により、成功裡に終わるかに見えた。

 監査官ステーノの、強引な命令が下されるまでは。


「ンな下らねえ判決が下りるワケねぇだろ。ほれ、早くつづき言え」

 カルロは葡萄酒に汚れた口を拭わずにそう言った。

 無頼の男、カルロ・ゼン。

 成り行きで僧院に入り、そのくせ女をめぐって騎士と決闘し……紆余曲折を経て、いつの間にやらヴェネツィア海軍の提督になりおおせている男だ。

「…………」

 カルロの眼光が、使者を射抜く。

「失礼しました。ピサーニ被告は、元首コンタリーニにより、死刑から一等減じ、罰金刑ならびに投獄となりました」

「フン」

 堅物のヴェットールめ、監査官ごときに従うとは。

 おれならそうはしない。

 カルロの内心を象徴するかのように、東地中海に荒波が立つ。

「うっ」

 使者がバランスを崩すと、カルロは副官に「連れて行け」と命じ、使者を視界から追い払った。

 使者が気に入らなかったわけではない。ヴェットール投獄という不快な状況から、目を離したかったのだ?

「針路をヴェネツィアに取れ」

「提督、それは」

「本国の阿呆が、莫迦ばかな命令でヴェットールの野郎を。その上、牢屋にぶち込みやがった。これでアドリア海はがら空きだ。来るぞ、ジェノヴァが」

 カルロには正規の軍人や騎士としての閲歴が無い。

 だが分かるのだ。

 嗅覚で。

 ジェノヴァが、この好機に攻めてくることを。



 カルロ・ゼンの予期したとおり、ジェノヴァはルチアーノ・ドーリアの率いていた艦隊をピエトロ・ドーリアに預け、ヴェネツィアに向けて進ませた。

「莫迦な」

 未曾有の事態に、ヴェネツィアは騒然となった。

 有史以来、ヴェネツィアがここまで敵に迫られるのも、稀である。

 さらに。

「パドヴァが?」

 ヴェネツィアの陸側の隣国がジェノヴァと連携し、今、餓狼のようにヴェネツィアの背後から襲いかかって来た。

 こうなると、同じくジェノヴァと同盟しているハンガリーも兵を繰り出してくる。

 そして、ヴェネツィアの海の関門ともいうべき、リド島沖合に、ドーリア艦隊、出現。

 折からの陸上攻撃に加え、ジェノヴァの海上からの攻撃により、リド島は焼き払われた。

 これを受けて、ヴェネツィアは南のブロンドロ島とキオッジャの港以外のすべての運河、堤防を封鎖する。

を作れ」

 その指示により、ヴェネツィアは官民一体となって、パドヴァ・ハンガリー連合軍、ならびにジェノヴァ海軍に対する環を作った。

 だが、その環から、地理的な状況で外れざるを得なかったブロンドロ島は、占領される。

 そして。

「キオッジャが!」

 三千人のヴェネツィア兵の立てこもる、キオッジャの港。

 その要害に向かって、ジェノヴァ艦隊は動き出す。

 運河にいたヴェネツィアの船はことごとく蹴散らされ、ジェノヴァ艦隊はついにキオッジャに到達する。

「取れ」

 ピエトロの命令は、簡にして要を得ていた。

 衝突するように接岸したジェノヴァの艦船から、わらわらとジェノヴァの兵が飛び出し、キオッジャのことごとくを占領した。

し」

 ピエトロはこの時、快哉を叫んだ。


 陸からはパドヴァ、ハンガリーが封鎖し、海からはジェノヴァがキオッジャに盤踞ばんきょして、ヴェネツィアを完全に包囲した。

 ヴェネツィアはもはやこれまでと、ピエトロに講和を求めた。

 が、ピエトロの返事はつれなかった。

サンマルコの馬に馬具を付けるまで、平和は訪れない」

 サンマルコの馬とは、ヴェネツィアの守護聖人・サンマルコに捧げられた寺院――聖マルコ寺院に飾られた銅馬のことである。

 それに馬具を付けるとは、ヴェネツィアの降伏を意味する。

 当然、ヴェネツィアとしては受け入れられるものではなく、講和交渉は不調に終わった。


 こうして、ヴェネツィアの命運は袋小路クルドサックに追い詰められてしまった。

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