03 袋小路(クルドサック)の中で

「終わりだ」

 元首公邸パラッツォ・ドゥカーレに集まるヴェネツィアの市民はうな垂れていた。

 無敵と思われていたヴェネツィアが、あっという間に追い込まれ、そして包囲されてしまったからだ。

 頼みの綱のカルロ・ゼン艦隊も、戻るかどうか。

 ヴェネツィアは万策尽きたかに見えたが、元首ドゥージェアンドレア・コンタリーニは諦めていなかった。

「皆さん」

 六十歳を超えるアンドレアであるが、その声はよく響く。

「諦めないで下さい」

 元首ドゥージェの言葉であるが、誰もが沈黙を保っていた。

 元首ドゥージェの言葉に同感ではあっても、ではどうするのかが述べられないからだ。

 アンドレアは、また口を開いた。

「危急存亡のときという言葉があります」

 マルコ・ポーロが東方を旅して得た知見のひとつを、アンドレアは披露した。

「つまり非常の際であり、非常の策を、と考えます」

 もうこのあたりになると、元首公邸パラッツォ・ドゥカーレにいる人々は、アンドレアの演説に釘付けになった。

 元首ドゥージェには何か策がある、と。

 アンドレアは聴衆に静粛を求め、それを告げた。

「ヴェットール・ピサーニを釈放しましょう」

 それは、ヴェネツィアの民衆から元首ドゥージェに対して請願されていたことである。

 実は、元首公邸パラッツォ・ドゥカーレはヴェットールに代わる提督を擬していた。彼は、家柄は良かったものの、才腕は未知数で、それが民衆にとっては、たまらなく不安に思えた。

 民衆は正直だ。そして、どうすれば自分たちが生き延びられるかを知っている。

 それが。

「ピサーニの釈放です」

 異議あり、の声が上がる。

 ステーノである。

 監査官として、プーラの敗戦の責は取らずに済んだ彼であるが、それはヴェットールが全ての責を負って投獄されたからである。

 それが釈放されたら。

「ステーノ監査官、今、君の一身上の都合に忖度している暇はありません」

 アンドレアは丁寧な、しかし断固たる口調でヴェットール釈放を提案した。聴衆は、そうだそうだ、と喚き、一部の人々はもう牢獄へと向かっていた。

「一身上の都合ではない」

 ステーノは叫ぶ。

「敗戦はなるほど、私に責があろう。だからといって、一度職を免じた提督を釈放……」

「司令官は、私がやります」

 アンドレアはステーノの発言に一理あるのを認めたが、その終わりまでは待たなかった。

 それだけ、時間が惜しかったというのと、今の発言により、ヴェネツィアの人々に、これからが真の戦いだと認めさせたかったのである。

元首ドゥージェ自ら司令官……」

 という事実により。

「そのとおりです」

 アンドレアは、元首ドゥージェ自ら司令官を務め、その補佐をヴェットール・ピサーニに頼むという形で、ヴェネツィアの国法や人事が軽んじられるのを防いだ。

 さらに。

「無論、司令官の任務を放棄するわけではありません。全ての責は私が取る。かつ、私財を投じます。そして、ジェノヴァを退けるまで、この元首公邸パラッツォ・ドゥカーレに戻るつもりはありません」

 決然たるその宣言に、元首公邸パラッツォ・ドゥカーレの人々はもちろん、牢獄から助け出されたヴェットールも震えた。


 ヴェネツィアの逆襲が、今、ここに始まる。

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