晴朗、きわまる ~キオッジャ戦記~
四谷軒
01 ヴェットール・ピサーニ
一三七九年。
アドリア海は燃えていた。
ヴェネツィアとジェノヴァ――二大海洋国家がこの海を舞台に争っていたからである。
「ジェノヴァ艦隊と戦う?」
「さよう」
ヴェネツィアの第一艦隊を率いるヴェットール・ピサーニ提督は、元老院からつけられた監査官ステーノの指示に、唖然とした。
プーラ。
アドリア海、イストリア半島の都市である。
イストリア半島とは、
ピサーニ艦隊は、ジェノヴァとの開戦以来、アンツィオ岬、シベニクの港、トロギル要塞と戦ってきた。
アンツィオ岬とシベニク港では勝ったものの、トロギル要塞ではルチアーノ・ドーリア率いるジェノヴァ艦隊の出現もあり撤退した。そして今、ヴェットールはヴェネツィアへの艦隊の
ところが。
「ジェノヴァのドーリア艦隊が?」
ジェノヴァは必勝を期して、ルチアーノ・ドーリアに二十五隻のガレー船を預けていた。
そしてドーリアは執念でピサーニ艦隊をプーラにて捕捉、そのまま決戦に臨まんとしていた。
「ここでドーリアを破れば、わが国の勝利」
とステーノは言う。
ヴェネツィアとジェノヴァはペストの流行により、共に余裕がなかった。
つまり、ヴェネツィア、ジェノヴァ双方とも、大艦隊を何個も出せない。
「だからこそ、一戦あるのみ。ドーリアを屠れ」
そうヴェットールに言って聞かせるステーノは監査官であって、司令官ではない。
ヴェットールはうんざりとした。
ヴェットール・ピサーニ。
海商国家ヴェネツィアのエリートとして商船隊を率い、時に商い、時に戦い、そして今、祖国の命運を握る戦いを任されている。
そのヴェットールのこれまでの経験とその才腕が、「戦うに利あらず」と告げている。
「監査官どの」
ヴェットールは重々しく口を開いた。五十五歳になる彼は、その風貌から、重鎮たる趣きがあった。
「監査官どの。何度も私が申し上げておりますが、本艦隊は入渠による整備が必要。船員の疲労もある。ここは撤退を……」
「甘い」
ステーノは容赦ない。ヴェットールの背後の幕僚の一人が舌打ちをした。
ステーノはそれを聞こえないふりをして、話をつづける。
「よろしいか。提督が利あらずと言うのは分かる。が、わが方にはまだ第二艦隊、カルロ・ゼン提督がいるではないか」
当時、ヴェネツィアは艦隊を二つ保有し、一個はヴェットール・ピサーニ提督が率いてアドリア海を戦い、一個はカルロ・ゼンという提督に任され、
ステーノが言いたいのは、ここでピサーニ艦隊が敗れても、ゼン艦隊がいるということだ。
つまり、こいつは
ヴェットールの口角が上がった。心ある幕僚なら、彼の不機嫌の証と知ったであろう。
しかし、意に介せずステーノは「戦え」と再度命じた。
「最も高貴なる共和国ヴェネツィア、その監査官たる我の命に従わずば、提督といえども収監する」
大仰な修飾であるが、ヴェネツィアは当時、そのような正式名称をしていた。
「…………」
善戦する自信はある。
たしかに、ピサーニ艦隊無くとも、ゼン艦隊はいるだろう。
しかし。
「はっきり言う。負けてもいいのか」
「くどい!」
ステーノはもはや議論は無用とばかりに、監査官用の
「戦いを前に、負けなど口にするな! もういい、提督を逮捕……」
ステーノの命令は、ヴェネツィア政府の命令と同様である。
幕僚や乗組員たちは、ヴェットールとステーノのどちらに従うか逡巡する。
「…………」
ヴェットールは、ステーノの命令に従うことにした。
このまま、船内で、艦隊内で内輪もめをして、ジェノヴァに乗じられるより、ましだと判断したからである。
ヴェットールは前進を命じた。
こうして、ヴェットールはプーラの海戦に臨んだ。
ヴェットールは敵司令官ルチアーノ・ドーリアを討ったものの、ジェノヴァの伏兵に気づかず、結果として敗北した。
そして敗戦の責を取らされ、本国ヴェネツィアに送還、投獄され、裁判で。
死刑が提案された。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます