破棄するのは
「退学って……、どういうことだ!」
愕然として叫ぶギルバートの周囲から、さっと人が引いて行った。彼とポーラの周りに残ったのは、二人の口車に乗せられて同じく退学処分となった者たちだけだ。爵位の低い貴族の子供、それも当主の座や爵位を継げない者たちばかり。騎士や官僚、領地の役人となって身を立てなければいけない次男や三男。あるいは、良縁を結べなかった娘たち。
その中には、授業でヴィクトリアに水をかけてきた令嬢や、廊下でぶつかって来た令息たちもいる。
グレアム王太子が壇上、学長の隣に進み出て、彼らを見下ろした。堂々とした威厳に、自然と誰もが首を垂れる。
「この度は国王陛下のお許しを得て、この場を借りることになった。今日という祝いの場を汚すのは本意ではないが、学園内のことと収めるためには必要なことだった」
王太子は必死の形相をしている弟を一瞬だけ見てから、鷹揚に手招きをした。
「まずは、ヴィクトリア嬢」
ヴィクトリアは口元に薄い笑みを刻んだ。リアムのエスコートを受けて、壇上に上がる。
「ヴィクトリア!? 何故君が」
この期に及んでギルバートはまだ理解していないらしい。学園を退学になることの意味を。
「わたくし、ずっとこうやって宣言する日を待ち望んでいました」
ともすればうっとりしているようなヴィクトリアの表情は珍しい。ギルバートは見惚れ、同時に怯んだ。
「何が……」
「ヴィクトリア・リーヴズ・アイラは、ギルバート第三王子との婚約を破棄いたしますわ」
そんなっ、と声を上げたのは、ギルバートではなくポーラだった。それを無視して、ヴィクトリアは言葉を繋ぐ。
「わたくしは美しいものが好き。ギルバート殿下、あなたはまったくもって美しくない。王子としての役目も、義務も忘れて、放蕩に浸ったあなたは、アイラ公爵家には相応しくありません。美しくないものなどいりませんわ」
これまでの経緯を鑑みて、国王と王太子がこの場で宣言することを許してくれたのだ。本当は、退学になった時点で婚約も無効となるのだが、きっと今のギルバートではそこまで考えが及ばないだろう。
ギルバートの青い目が、壇上のヴィクトリアを見上げる。混乱と焦燥が入り混じって見開かれた瞳。ヴィクトリアは作り物ではない、心からの笑みを浮かべた。
王太子や学長が口を挟まないのを見て、退学も婚約破棄も本当のことだとようやく悟ったようだ。ギルバートはその場に膝をついた。
「ぼ、僕が……、美しくない? まさか、そんなはず」
ギルバート第三王子といえば。
整った風貌を優しく綻ばせ、誰に対しても物腰柔らかい、令嬢人気の高い王子。身分の差を気にせず人の話に耳を傾け、関わった相手の名前と顔を忘れない。
厳格な王太子や第二王子と違って、柔和で穏やかな、親しみやすい人。
その人柄が、王族であるという絶対的な立場と、「自分は王子である」という傲慢さから生まれたものだと、ヴィクトリアは知っている。
人の上に立ち、生活には困らず、巨大な権力と金の力を持って相手を見下しているからこそ、生まれる余裕。
ギルバートが誰かに向ける優しさは、幼児が蝶を捕まえて愛でるようなものだ。相手のことなど考えず、ただ強者としての支配だけがそこにある。
王族としてあるなら、その傲慢さも必要だろう。だが、ギルバートはそれを自覚していなかった。上の兄二人とは違って。
だが、ギルバートは王家を出る身だ。ヴィクトリアと結婚すれば、アイラ公爵の名前だけを与えられて、毒にも薬にもならない人生を送ることになっていたはずだ。公爵としての仕事は、ヴィクトリアがいれば事足りるのだから。
安泰の未来を捨てたのは、ギルバート自身。
「ぼ、くはっ! ただこの国の王子として、できることをしていただけだ! 下の者たちの話を聞き、国のためになることを考えて!」
「身分に関係なく、不遇な境遇の者に手を差し伸べる、でしたかしら?」
「その通りだ! グレアム兄上、分かってくださいますよね? 僕は期待された通り、民の声をよく聞くように努めておりました。僕の意見は必要なはずです、そうでしょう?」
必死に訴えられた王太子は、眉間に皺を寄せたまま何も言わない。
ヴィクトリアは一歩前に出て、ギルバートの視線をこちらへ戻した。
「あなたは理解しておりませんわ、ギルバート。王侯貴族としての権利に守られているのにも関わらず、それを自覚せず、生まれによって持ち得た幸せを嘲笑う。アイラ公爵令嬢として恵まれたわたくしを、贅沢を極めた悪女だと侮辱しておられたでしょう? あなた自身が、誰よりも身分の恩恵を受けているくせに」
あなたとポーラの、その衣装は一体何?
その言葉に、ギルバートはハッとして自分の衣服を見下ろした。
平民では一生をかけても手に入るはずのない、贅を凝らした特注の衣装だ。
「ギルバート、あなたの理想は素晴らしいわ。悩める人々を救いたいと願い、身分に関わらず声を上げることができる国」
「だったら!」
「ならば、あなたが率先してその身分を手放さなければならなかった。『僕は王子で贅沢な暮らしをするけれど、他の人は全員公平だよ』だなんて。いったい何が平等なのでしょう?」
ヴィクトリアは指先で口元を隠し、ふふっ、と笑い声を上げた。
「愛を囁き理想を語るだけで、なーんにもしない童話の世界の王子様? ようやく現実に戻って来られましたわね」
血の気の引いた顔で膝をつき、ヴィクトリアを見上げ、肩を震わせるその姿。青い唇が言葉もなくはくはくとわなないて、小さな呻き声がその隙間から漏れ出す。
その様を眺めて、ヴィクトリアはあでやかに目元を緩めた。
「今のそのお姿だけは、それなりに美しいですわね。それも、リアムには及ばないけれど」
「……ヴィクトリアお嬢様がそう言ってくださるのはとても嬉しいのですが、どうしても顔が笑ってしまうのです。お嬢様はもっと絶望した顔の方がお好みなのに……」
すぐ傍に控えているリアムが、ぼそっとそんなことを言うものだから、思わず振り返ってその笑顔を見てしまった。
ぴくっと肩を揺らしたリアムが、手で頬を揉んで緩みを抑えようとする。あんまりにもかわいくて、ヴィクトリアの胸がきゅっとした。
「そんなことないわ、リアムの顔ならすべて好きよ」
「……ありがとうございます」
揉むのをやめてはにかむリアム。
慣れ親しんだ主従のやりとりに、呻いていたギルバートが大声を上げた。
「待て! リアムは血の契約を結んだ僕の従者だ! 僕が退学になるということは、リアムもそうだろう!」
それは、当然の事実を言っているというよりは、ヴィクトリアからリアムを奪ってやろうという、そんな執念が込められているように思えた。
「ああ、リアムの意思に関係なく従者として強制的に縛り付ける、あの悍ましい契約のことですわね? 条項を聞いた時、ぞっとしましたわ……。あの内容だと、まったくリアムの自由が無いのですもの」
「どう、いう」
「除外条項が一つもない主従の契約だなんて、自由意志がまったく無くなってしまいますわ。ただ主人の言いなりになる人形を作るやり方ですのよ、あれは」
「まさか!」
ギルバートは絶叫に近い声を上げたが、王太子と学長が重々しく頷いたのを見て、呆然とした。
「では……、だ、だが。今のリアムは自由に動いているじゃないか? 僕の傍にも控えず、僕の意に沿わない行動を……。スクロールだってここに!」
もたもたと懐から取り出したのは、細いスクロールだ。あれが血の契約のスクロールだろう。
ヴィクトリアはリアムに視線を投げた。
意を汲んだリアムは、恭しい手つきでヴィクトリアの宝石箱を出した。ヴィクトリアが鍵を開け、その中から重量のあるスクロールを持ち上げる。相変わらず端が少し焦げているが、契約は健在だ。
「これは、わたくしとリアムが幼い頃に結んだ、血の契約のスクロールですわ」
「上書きされていない……?」
「ええ。どうやら、ギルバートの魔力がわたくしに遠く及ばず、上書きするほどの力が無かったようですの」
慈しむ手つきでスクロールを撫でる。
「リアムの自由を奪わないよう、除外条項も大量に付け足しました。お陰でとてつもない長さになってしまって、使用した血の量も多くて。二週間ほど時間をかけましたわ」
生まれながらに持つ、ヴィクトリアの強大な魔力。張り切っていっぱいに込めた記憶がある。このスクロールには、普通ならばありえないくらいの魔力が込められている。
「国王陛下には例外中の例外だと言われましたわ。今のリアムは、血の契約を二つ結んでいる状態です。リアム、どちらの契約を破棄したいですか?」
その場の全員の視線が、リアムに集まった。
リアムは嬉しそうに頬を染めて、ヴィクトリアの前に跪く。差し出された手を取ると、ぎゅっと強く握られる。
「ヴィクトリアお嬢様、私はあなたのためだけに、身も、心も、すべてを捧げると誓っております。ギルバートとの契約を、破棄します」
その瞬間、ギルバートの手の中で契約スクロールが燃え上がった。
ギャッと叫んでスクロールを落としたギルバートの足元で、リアムを縛っていた契約が跡形もなく燃え尽きる。
そして、ヴィクトリアとの契約スクロールは、燻っていた部分がみるみる再生され、元の姿に戻った。
これがあるべき姿だ。リアムは、ヴィクトリアだけの従者だ。
ほんの少しだけ、視界の端が滲んだ。
「リアム、変わらない忠誠をありがとう」
「これが、私の意思で決めた、私の生きる道ですから」
自然と起きた拍手に、リアムが驚き、照れている。そんな顔もかわいらしい。
ギルバートとその周囲だけが静かだ。火傷した手を抱え、魂が抜け出たように座り込むギルバート。何が起きているのか分からず、目を白黒させているポーラ。
うろうろと視線を彷徨わせたギルバートは、ふっと兄を見上げた。縋るような視線を、王太子は厳しい顔で叩き落とす。
「兄上……」
「ギルバート」
「僕は……、間違っていないはずです。僕は優しいから、人の気持ちを理解できるから、よく民の話を聞けと。そう言ったのは、母上です。僕は……、兄上の治世に、必要なはずだ」
「ヴィクトリア嬢の言う通り、お前には理想しか見えていない」
グレアム王太子の言葉に、一切の揺らぎもない。
「なるほど、俺は確かに人の気持ちが分からない。陛下も俺も、お前がその代わりをしてくれるなら良いと思っていた」
王太子としてではなく、兄としての言葉。それに小さな希望を見出したのか、ギルバートの青い目に光が灯る。
「だが、必要とは思わない。お前の代わりならいくらでもいるからだ」
しかし、その希望は瞬く間に叩き潰される。
「お前が凡愚であることなど王家の者全員が分かっていた。だからこそヴィクトリア嬢と婚約させたのだ。幼い頃から貴族としての立場を理解し、民のために働きかけることができる彼女と。植物園の事業を含め、彼女が手掛けた施策は一定以上の成果を上げている。今日のドレスも、ヴィクトリア嬢に感謝した民が特別に心を込めたものだと聞いた。何者でもないお前でも、王族としての血筋を活かせるはずだったのだ。それなのに……。ヴィクトリア嬢、ひいてはアイラ公爵家との繋がりを断ち切ったお前は、我が治世には必要ない」
グレアム王太子は、天才と呼ばれる人間だろう。為政者としては素晴らしい人物だが、人として付き合うのには苦労する。本人の申告通り、人の気持ちを思いやるという発想がないからだ。
それなりに優秀ではあったが、普通の人の範疇を超えられないギルバートの不運は、このグレアムの下に生まれてきたことかもしれない。
「あ、にうえ……」
ギルバートの心が粉々に砕け散るのを、ヴィクトリアは愉悦と共に眺めていた。
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