二 その歌を続けさせて

 男がいる。

 雨が降って人などどこにも見当たらない公園のベンチで、わざわざ身体を端に寄せて座る男だ。

 俯いているから顔は分からない。短い黒髪を撫でつけ、ネクタイを締めたスーツ姿という出立ちは、この公園にいる存在として明らかに浮いている。

 乙羽の呼びかけが聞こえなかったのか否か、男はピクリとも動かなかった。だから乙羽も躊躇い無く、

「どうしたんですか? 具合悪いとか?」

 話しかけ続ける。

 奇行だという自覚はあった。それなのに口が止まらないのは何故だろうか。何故、見知らぬこの男のことがこんなにも気になって仕方無いのだろうか。

「風邪引きますよ。雨宿りでもした方がいいんじゃないですか」

 返事も身動きもしない男に対する呼びかけの語彙は早々に底をついた。どうしようかと一瞬考えてから、乙羽は男の隣に腰を下ろす。

「濡れたいのなら、いいですよ。俺もずぶ濡れになってやります」

「……」

 男の首が動き、俯いたままの頭が僅かにこちらを向いた。男が意志を持っているらしいことを初めて知ることが出来たというだけで、謎の高揚感を覚える。そのまま、乙羽は男へ笑いかけた。

「俺、乙羽知成っていいます。彼女に振られたばかりなんで、傷心中ってことにしといてください。

 さ、これであんたと俺は他人じゃなくて知り合い。だから次は、あんたのことを教えてくれませんか?」

「……」

 不審者の屁理屈を並べ立てていると、男が更に反応を示した。横を向いていただけの頭が、今度は縦に動き出したのだ。それは男の顔を露わにする為の動きで、

「……僕は、しな

 ゆっくりと顔が上げられると共に、低いが雑味の無い声が、その口から発せられる。

「夜科かなえ

 そして、崩れて顔に貼りついた前髪の奥。ぽっかり開けた穴のような黒い双眸と、目が合った。


      ◆


 雨脚は強くなるばかりで、乙羽と夜科の身体を平等に濡らしていく。

「夜科さん」

 その中にありながら、乙羽の心はどうしようもなく晴れていた。

「夜科さんは、なんでここにいたんですか?」

 ニコニコと笑みが溢れるのを止められず、乙羽は真面目ぶるのをやめて陽気に話しかけた。対する夜科は死んだ目と仮面のような無表情を保ったまま、しかし乙羽と会話する気はあるようで、ぽつりぽつりと、呟くようにこう答える。

「なんで、だろうね。休日はいつも寝てばかりいるけど、それすら嫌になったのかもしれない。かと言って服も無いから仕事着で出てみれば、少し歩いただけで疲れてしまって……。結果はこの有様だ」

「何かやりたいこととかは思いつかないんですか? 将来設計の話じゃなくて、たとえばこれ食べたいとかあれ欲しいとか、そういうの」

「やりたいこと」

 夜科は乙羽から視線を逸らして、ぼんやりと宙を見ていたが、やがて、

日和ひよりさんに会いたい」

 と、思いの外はっきりとした声でそう言った。

「ヒヨリサン?」

 乙羽が言葉の意味を変換することに一瞬の時間を要している間に訪れた夜科の変化は劇的だった。

 それまで鈍い反応しか示さなかった夜科は、悲しみとも憤りともとれる表情で顔を歪ませ、痛切な感情を滲ませた声をもって、堰を切ったようにそれだけを繰り返す。

 会いたい。会いたい。日和さん。日和さん。日和さん。

 夜科が両手で顔を覆う。そこで初めて、乙羽はあることに気付いた。

 すすり泣く声が通り抜ける指の内、左手の薬指に光沢を帯びた指輪が填められている。

 ……あ。

 その瞬間。乙羽は、自分を突き動かしていた衝動の正体を知った。

 そこには、二つの気付きがあった。

 ……この人、俺の〈ペア〉だ。

 運命の相手との邂逅。しかしそれと同時に、

 ……そっか。もう日和さんって人と契ってるのか。

 ちぎり。それは、天体性保有者が伴侶を定めたときに行う儀式だ。

 契りを結ぶ者達は、相手の指の根元を噛んで歯形を残すことで、その指に〈リング〉と呼ばれる特殊な指輪を形成させるという。

 天体性保有者としての直感が断言していた。ごく普通の金属の指輪に見えるそれは、間違い無く夜科の伴侶が残した〈リング〉だと。

 本当の意味での諦めは、すぐについた。元より〈ペア〉捜しに熱を入れてこなかった身だ。こういう可能性も覚悟していた。

 衛星は、己と〈ペア〉の惑星に対して必ず恋愛感情を抱く。だが、必ずしもその逆が発生するとは限らない。聞いたことはある話が、自分に当てはまったというだけだ。

 だから、

「夜科さん」

 乙羽は一度立ち上がると、夜科の目の前でしゃがんで視線を合わせた。それに気付いた夜科が、恐る恐る顔から手を外してこちらを見る。

 乙羽のことを真の意味で見ることは無いであろう、空洞のように光の無い瞳が、何よりも綺麗だと思った。

「このまま雨に打たれるのも悪くないけど、流石に風邪引きますから。家に帰りましょう。嫌じゃなければ、近くまで送ります」

「……」

 乙羽の台詞を受けて、夜科は少しだけ言葉の意味を捉えあぐねたかのように無言を挟んだ。それから、

「君は……」

「名前でいいですよ」

「乙羽くんは一体どうして、僕に構うんだい?」

「あー……、なんででしょうね? 雨に濡れてる捨て猫に傘を差すような、ヤンキーの気まぐれでしかないかもしれません」

 あんたが俺の運命だから、とはいくらなんでも恥ずかしくて言えたものではない。その代わりに冗談っぽくそれらしい発言をしてみせると、

「君がヤンキーで、僕が捨て猫?」

 夜科が、少しだけ笑った。

 たったそれだけで、乙羽は自分の心の、今まで持て余していた虚無感が綺麗に満たされていくのを感じた。

 ……別に結ばれなくてもいい。この人だけが俺の〈ペア〉だってことは、絶対不変の事実なんだから。

 乙羽が夜科に手を差し伸べると、その手が、おずおずとした様子の夜科の左手によって握り返される。

 少しだけ切なく、しかしそれ以上の幸福感に身を任せながら、乙羽は満面の笑みを夜科に向けてみせた。


  続

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