【習作】激しい雨

亀野 航

激しい雨

       *


「このくらいの雨が好き。あとはみんな嫌い」と、女は鼻にかかる声で言った。

 さああ、という衣擦れのような雨音が、小さな車体を包み込んでいた。相槌で済ませてもよい話だったが、男は目を瞑ったまま、気まぐれに「どうして?」と訊ねた。背もたれを目いっぱい倒して寝転がり、指を交わらせた両手を、枕代わりにして頭に敷いていると、次第に指が圧迫されてピリピリと痺れた。隣の、同じように背を倒した助手席の上で、女がのっそりと身をよじらせる気配があった。シートのこすれる微かな音がした。

「雨、って感じがするから」彼女は答えた。声がこちらを向いている。「が、っていう。これ以上強くても、弱くても、この感覚にはならないの」

 意味がよく分からなかった。男は、ふうん、という相槌で済ませた。

 瞼を開くと、当然ながら見慣れた天井が映った。手を後頭部の下から除ける。考えてみれば、座席には頭をもたせかける部位があるのだ。わざわざ手を痛め付ける必要はない。男は少し苛立ちを覚えながら、自由になった手首をふらふらと振って、血の巡りをよくし、強張った筋肉をほぐした。狭い車内ではそれだけで、右手がドアにかつかつと当たった。

 両腕を勢いよくシートに投げ出した。カンッ、と、右手の甲が硬い物体を叩いた。痛みに顔をしかめ、自分が置いたはずのそれに、内心で理不尽な悪態をついた。表面をそっと撫でる。金属の冷たさが少し心地よかった。引き金には、手を触れないよう注意した。

 さああ、と、窓ガラスを雨が伝った。

「気圧で体調が変わる人っているじゃん。あれよく分かんないんだよね」

 女の話は決まって唐突だった。

「俺も分からない」

「片頭痛とか、体がだるいとかさ。あれかな、生理みたいな」

「俺は生理も分からない」男はかぶりを振った。

 女はつまらなそうに「めんどくせ」と言うと、またしてもゆっくりとうごめいた。んん、と力むように唸ったあと、たあ、と息を漏らした。体を伸ばしたらしい。

 雨に混じって、遠くでサイレンが鳴っている気がする。霧吹きのように微細な音で、それがパトカーのものなのか、あるいは救急車なのかは判別が付かない。その両方かも知れず、またそもそもサイレンではないのかも知れなかった。

「ね、音楽かけて」と女が言った。

「今流すもん何もないぞ」

「じゃあ何か歌って」

 驚いて思わず振り向くと、女は体ごとこちらを向いていた。片腕を枕にして横になり、いたずらっぽい笑みを浮かべている。本来ならわずかに茶色がかっている長い髪も、紅い唇も、この暗がりではただの黒だった。肌だけが、か弱い蛍光塗料のように青白く浮かび上がっていた。大きな目は、見ていると吸い込まれそうな気分になる。

 その瞳を、男は黙って見つめた。単調な雨音だけの時間が続いた。そしてしばらく経ってから、男は溜め息をついて体を起こした。少なくとも歌うのは御免被りたいので、仕方なくラジオのスイッチを入れた。

 スピーカーからは、男性の甘い声で歌われる、恋人との死別の歌だった。あれは何年前の春の日だとか、君の作った料理が云々、だとか。やたらと具体的な、その割には凡庸で印象に残らない思い出話が、語感の全く合っていないメロディに乗せられていて、まるで、別の曲の詞を無理やり当てはめたかのように調子はずれだった。

「ひどい歌」女が呟いた。

「全く」男は同意し、少し音量を下げた。

 風が遠吠えのように唸り、雨がバケツの水のようにバシャッ、と窓に掛かった。

 曲が終わって、間髪入れずに次の曲が始まった。日本の古いフォーク・ソング。男性歌手がよれた歌声で、「宝くじは買わない」「お金じゃ買えないものをもらった」「愛してくれる人がいるから」と歌っていた。

 男と女は、揃って苦笑した。男は再びばたんと寝転がった。

「これからどうする?」

 女が、またしても唐突に訊ねた。

 男は「そうだな……」としばし考え込み、思い付きで「まずは海外だろ」と答えた。

「お、いきなり大きく出たねえ」

 雨が激しくなっていた。ラジオの音声が雨風に埋もれつつある。ニュースの時間らしい。先ほど起こった強盗殺人の話題だった。

「何言ってる。どうせならそれくらいしねえと。誰も俺らを知らないところでさ、心置きなく過ごすんだ」

「魅惑的な響き」と、女は冗談っぽく言って笑った。

 男も釣られて笑う。それから、二人とも黙り込んだ。

 ザアア、と、砂嵐のような雨音。パタパタと窓を叩く雨粒。

 凍り付いたような無言の時間。密度の濃い水音が、車の外側に隙間なく充満している。内側だけが空洞だった。車体が無数の銃弾で、蜂の巣にされているみたいだった。

 男は、手元にある冷たい銃身を、そっと撫でた。

「――嫌い」女が、鼻にかかった声で呟いた。


 束の間だけ空がカッと明転し、同時に火薬のような雷鳴が、辺りの物音を全て掻き消した。そのほんのわずかな時間だけは、裏に別の音が潜んでいても、誰も気が付かない。


 サイレンの音が、少しずつ近付いていた。それを聞く者はもういない。

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