第18話 女王陛下にご挨拶
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二人の唇が、いままさに合わさろうとしたところで、屋敷の奥から声がした。
「わたしの理解の及ぶところではないが、なぜこうなっているのか説明してもらえるだろうか」
二人は飛び跳ねるようにして身を離した。
モリーが振り返ると、父親のモントゴメリー男爵が顔をこわばらせて立ちすくんでいた。
「お父様!」と、モリー。
ペンドラゴン卿は「これは、男爵」といってどうにか頭を下げた。
小柄で小太りなモントゴメリー男爵は、ふだんは血色の良い顔立ちをしているが、いまはすっかり白くなっていた。
「なんということだ。国の英雄がわたしのモリーを。だが、見てしまった以上は致し方ない。わたしはあなたに決闘を申し込まねばならないようだ」
ペンドラゴン卿が眉を寄せた。
「わたしとあなたが、決闘?」
男爵は震える手でペンドラゴン卿を指差した。
「もちろん、わたしに勝ち目などいっさいないことは承知している。だが、それでもわたしには父親としての責務がある。娘が弄ばれたというのに捨て置くことなどできない。ペンドラゴン卿、責任を取って娘と結婚するか、わたしと決闘するかしてもらいますぞ」
モリーとペンドラゴン卿は互いの目を見合わせた。
ペンドラゴン卿がいう。
「男爵、どうやら誤解があるようです。わたしは娘さんを弄んだりはしておりません。順番が前後してしまったことは謝ります。通常、このようなことは、まず父親であるあなたの許可を得てから進めるべきでした」
ここで、〝蒼い男〟の手で床に横たえられていたモントゴメリー夫人が目を覚ました。
ものすごい勢いで上半身を起こし、キョロキョロとあたりを見回すと、ペンドラゴン卿を認めて、「まあまあまあまあ!よかった!夢ではなかったのですね!」と叫んだ。
男爵が不審な顔をする。
「なにが夢ではなかったというのだね?」
「あら、あなた。聞いてくださいな。いいですか?落ち着いて聞いてくださいよ!こちらにいるペンドラゴン公爵が、うちのモリーに結婚を申し込んでくださったのです!まあ、たいへん、親戚のみなさんにもすぐにお知らせしなくっちゃ!みんな喜んでくださるはずだわ!それにーー」
「〝蒼い男〟が、メアリーに?」男爵が夫人の言葉を遮るようにつぶやいた。「そ、それはじつに喜ばしいことだ。し、しかし、公爵、あなたはお分かりなのか? メアリーには恩寵がないのですぞ? もちろん、この子は素晴らしい娘です。美しく、賢く、心根も優しい。いつかは誰かがその素晴らしさを見抜いてくれると期待していたが、恩寵を持たない人間があなたの妻になれるものなのですか?」
ペンドラゴン卿が頷いた。
「むしろ、わたしのような人間が、お嬢さんに結婚を受け入れてもらえるかが心配ですね」
モントゴメリー夫人が立ち上がった。
「もちろん受け入れますわ!この子は受け入れますとも!」
「それはよかった」ペンドラゴン卿が微笑む。
モントゴメリー夫人が手を叩く。
「グラハム!グラハムや!お客様よ。お茶の準備を。さあ、ペンドラゴン卿、我が家は所詮は男爵家ですがコックの腕だけは自信がありますの。お楽しみいただけると思いますわ」
「それは楽しみです」
ペンドラゴン卿は笑顔を作り、夫人の招きに応じた。そこからの一時間、卿はモリーが驚くほどに社交的で、打ち解け、心から夫人のおしゃべりを楽しんでいるように見えた。夫のモントゴメリー男爵ですら付き合いきれないほどのかしましさだというのに。
しかし、肝心のモリー自身は未だにペンドラゴン卿との婚姻など上手くいくはずがない、と考えていた。いまはきっと頭がどうにかしているだけで、すぐに正気にかえるに違いない。いや、早く正気にかえってもらわないと。話が広まるだけ広まって、挙句振られてしまうのはつらい。
彼女は胸に手を当てた。まだ心臓が激しく脈打っている。
さっきは、もう少しで卿と唇が触れ合うところだったのだ。
ペンドラゴン卿は最後まで礼儀正しく振る舞ったのち、懐中時計を確認し、「いつまでもこの素敵なひとときを続けたいのですが、そろそろ次の場所に向かわなくてはなりません」といった。
「あら、次? それは残念ですわ」と、夫人。
「ご存知のように、わたしはただの公爵ではありません。そのため、わたしが誰かと添い遂げようとするなら、しかるべき筋に話を通さねばならないのです。こうしてメアリーさんのご両親の許可をいただいたからには、すぐにでもそれに取り掛かりたいのです。つまり、女王陛下および女王代理にメアリーさんを紹介したいのです」
「まあ!まあまあまあまあ!」モントゴメリー夫人がまた騒いだ。「陛下と代理にご拝謁ですって?うちのモリーが?なんて光栄なお話なのかしら」
「まことに申し訳ありません。つきましては、お嬢様をしばしお借りしてもよろしいでしょうか。もちろん、結婚前の男女が二人だけで遠出するのは憚られる行為と承知しております。要件が済み次第、すぐにお戻しいたします」
夫人はニコニコ顔で二人を送り出した。
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モリーはペンドラゴン卿と二人で馬車に揺られていた。
窓の外、セイラーストリートの瀟洒なお屋敷が過ぎ去っていく。
彼女は横目で向かいに座るペンドラゴン卿の端正な横顔を見ては、あわててそらすを繰り返した。
このわたしと結婚したい?
つまり、わたしがペンドラゴン公爵夫人になるということ?
いいえ、そんなことあるはずがない。
ペンドラゴン卿はいままさに「全て忘れてくれ」と言い出すに違いない。
額ににじんだ汗をハンカチで拭っているとペンドラゴン卿がいった。
「そう心配することはない。陛下は滅多に目を覚まさないし、代理のヴィクトリアも気のいい女性だよ」
「そ、そう。それはよかったわ」
ペンドラゴン卿は彼女をじっと見つめた。
さらに何かいいたげだったが、言葉にはしなかった。
馬車はあっという間にバッキンガム宮殿の敷地に入った。
モリーはまるで熱に浮かされているような気分だった。
何もかも、現実のこととは思えない。
はやく自分の方から、きっぱりと断らねばならないことはわかっている。そもそも、ペンドラゴン卿のことなどなんとも思っていないのだ。断ることに、なんの躊躇もあるはずがない。
だというのに、いざ言葉にしようと舌が動かない。
クリフォード邸の晩餐会で初めて彼の目を見たときのようだ。
卿が先に馬車を降り、モリーに手を差し出す。
彼女は彼の大きな手を握り、自身の予知の力を恨めしく思った。
この力さえなければ、手袋越しでなく生身で彼の手を握ることもできるのに。
間を置いて、彼女はそう考えた自身に驚いた。
宮殿の衛兵たちが、卿に敬礼し、卿も軽くうなずく。
その様を見て、モリーは自分がどれほどの相手に迫られているのかを改めて感じた。
彼はただの貴族ではない。大ロイグリアの国政を担う、最高権力者の一人なのだ。
宮殿の廊下は想像していたよりも狭かった。
ただ、足元の赤い絨毯の踏み心地は抜群だし、真っ白な壁の前に並んだ彫像は、立ち止まって小一時間眺めたくなるほどに見事な逸品ばかりだ。
二人は客間に通された。
帝国の始祖アーサー・ペンドラゴンの巨大な肖像画が、二人をじっと見下ろしている。金色の髪に青い瞳、力強く意志の強そうな顎の線は、ペンドラゴン卿にそっくりだ。髭さえなければ同一人物といっていいだろう。アーサーの身体の周囲には、マークのそれと同じような青白い光体が描かれている。
「あなたのご先祖さまだわ。やっぱりよく似ているのね」と、彼女。
卿が、ピロウド張りの椅子に腰を下ろして肩をすくめた。
「当然だ。その絵のモデルはぼくなのだから。宮廷画家がそれを描いたのは二年前だ。つけ髭が痒くて仕方なかったよ」
モリーは笑いながら、彼の隣に腰を下ろした。
反対側の壁にかかった絵を指す。
「では、あちらはどなたがモデルを務めたの?」
絵の題材は、聖女モリガンだった。アーサーを助け、帝国の礎を共に築いた異父姉だ。陶磁器のように真っ白な肌に、白金色の髪、薄ピンク色の唇は少々肉感的だ。
「ヴィクトリアだよ。髪の色はソフィア陛下に合わせたらしい」
「お近くで見たことはなかったのだけど、ヴィクトリア様はこんなにもお綺麗な方だったのね。しかもまだ独り身なのでしょう? わたしなんかよりも、ずっとーー」
「ずっと、なんだ?」
「その、あなたにお似合いだな、と思って」
我ながらうまい流れを見つけた。モリーはそう思った。ここから会話を進めて、ペンドラゴン卿を正気に返すのだ。
が、卿はフンと鼻を鳴らした。
「彼女はぼくの兄妹みたいなものだ。だいいち、君の方がずっと美しい」
モリーは手のひらで自分の顔を仰いだ。卿がさらに彼女を褒めたたえようとする気配を感じたので、話を晒そうともう一度、絵に目を向けた。
「髪の色はソフィア陛下に寄せてらっしゃるということだけど、陛下はどのような方なの? あ、もちろん功績については存じてるわよ。ヴィクトリア様が代行するようになる前、約四十年にわたって我が国を導いてきた方ですもの。我が国の女系皇族だけが持つ〝繁栄〟の恩寵で、数々の植民地開拓を成功させてきたとか」
ペンドラゴン卿が頷いた。
「そして、およそ二十年前に〝眠り病〟にかかった。じょじょに睡眠時間が長くなり、一日のうち二十時間を寝て過ごすようになったところで、ヴィクトリアが代理となった。その後も病は悪化し続けて、いまは半年に一度起きるかどうかだ。だから、ぼくもソフィア陛下のことはそんなに詳しいわけじゃない。なにしろ、ほとんど寝ているんだからね。ただ、たまに起きている時は、とても優しい女性だよ」
「それはよかったわ」モリーは両手を握りしめた。
「そう緊張することはないさ。陛下はほぼ寝ているんだ。ぼくたちがいっても起きている可能性はほとんどない。それなら、挨拶など不要と感じるかもしれないが、やはり皇族の長は彼女だからね。慶弔の報告はまず彼女に行うのが習わしなのさ」
モリーは「そう」といいながら、使用人が置いていった紅茶のカップを手にした。いますぐ固辞せねば、という気持ちと、そうしたくない気持ちがぶつかり、手が震えた。どうにかカップを持ち上げたものの、端から中身がこぼれ、両方の手袋にしみをつくった。
「あつっ」彼女はカップをテーブルに置いたソーサーに戻すと、手袋を外した。そのとき、左手の小指がかすかに右腕の皮膚に触れた。
たちどころに未来のビジョンが広がった。
十年後のビジョンはーー虚無だった。
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