第2話 予知能力者、最悪の結婚相手に出会う

「君のような礼儀知らずと結婚する男は不幸としかいいようがないな」




モリーことメアリー・モントゴメリーにそういったのは、ロンドンのすべての未婚女性が恋焦がれるという、エクセイン公マーク・ペンドラゴンだった。




今年の結婚市場随一の独身男性。いや、去年も、その前の年もペンドラゴン卿は不動の一番人気だった。




古代ギリシア彫刻のような整った容貌はもちろん、古い血筋の貴族なので、第一級の〝恩寵〟を持っている。たった一人で千人の軍とも渡り合えるといわれる〝蒼い男〟だ。




爵位と財産は文句のつけようもない。昨年、伊達男で慣らしたランズベリー卿が年貢を収めたため、現在、結婚市場唯一の公爵であり、デイリー紙によれば、広大な公爵領からのあがりだけで年収十万ポンドに達するという。




そんな完璧な独身者に非難されてもモリーは臆しなかった。二十六歳のオールドミスに恐れるものなどない。そのため、酔いにもまかせて本当のことを言ってしまった。




「あなたのように傲慢な男性と結婚する女性は世界一の不幸者でしょうね。命の恩人にそんな無礼な口を聞くなんて」




彼女は、すぐに、やらかしたことに気付いた。




彼の命を影ながら救ったことは、誰にも知られてはならないのだ。わずかでも尻尾を掴まれるようなことがあれば、自身の身の破滅につながりかねない。




⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎




そもそも、この日は朝から失敗続きだった。




クリフォード男爵家の晩餐会は、腹痛を理由に欠席するつもりだった。悪評の立っている独身女が出向いたところで、みじめに壁の花として過ごすしかないのだ。それくらいなら、腹痛を装って自宅に籠り、米国から届いたばかりの学術雑誌を読みふける方が、ずっとましだ。




ところが、包装を破っている最中に、母親のモントゴメリー夫人に踏み込まれた。




夫人は、モリーが仮病を使おうとしていたことを即座に察し、甲高い声で怒鳴った。


「メアリー・モントゴメリー! あなたは自分が置かれている状況がわからないの? わたくしがお茶会でどれほど恥ずかしい思いをしているかご存じ? 




先日など、ロンサム商会会頭夫人に、おたくのメアリーさんはたいへん賢いから、並の男性では釣り合わないのですわ。なんて嫌味をいわれたのよ? 彼女は爵位すらない、ただの商人の妻なのによ? 感情が昂り過ぎて、その場で卒倒するところだったわ。




いい? 何度でもいいますが、殿方は小難しい知識を蓄えた女など好みません! そんなものを読む暇があったら、一度でも多く晩餐会に出席して、あなたを気に入ってくれる相手を探すの。




あなたは背が高すぎるし、骨も太いし、顔立ちも力強過ぎます。でも、どれだけ不器量でも、一人くらいはあなたと結婚してくれる相手が見つかるはずです。貴族の三男や四男、貴族階級との繋がりが欲しい商人の二男なら、多少の見た目の悪さは飲み込んでくれるはずだわ」




夫人が一度こうなると、もう何を言っても無駄だ。


モリーは観念して、二年前に仕立てた深緑色のドレスに着替えると、モントゴメリー家の少々ガタのきた馬車でクリフォードハウスに向かった。




舞踏会は大盛況だった。




シャンデリアのやわらかな光に照らされて、適齢期の若い男女が、上品な笑みを浮かべながら、鷹のように鋭い目つきでダンス相手、すなわち結婚相手を探している。




モリーはクリフォード男爵夫人への挨拶を済ませると、いつものように静かに壁際の椅子に腰を落ち着けた。




周りでは、既婚男性が固まり、〝男らしい会話〟に花を咲かしている。


髪が跳ね上がっているひときわ貫禄のある男性が、「バネ足の奴、姿をくらませおって、せっかくこのワシがわざわざ戦地から戻ってきたのに」というと、太鼓持ちのような小男が「まったく、獅子卿のおっしゃる通りですな。卿なれば、あんな輩はやすやすと一蹴できるでしょう」と、手を叩いた。


別の男が、「〝蒼い男〟と〝獅子〟が揃えば、まさに天下無敵!」と付け足す。




モリーは彼らの会話に耳をそばだてながら、使用人から差し出された生ハムのサンドイッチをパクついた。本場イタリア産の生ハムだろう。噛むほどに旨味が染み出してくる。




もし、母親のモントゴメリー夫人が、舞踏会に付き添って来ていたなら「何をそんなところで悠長に食べているのですか! 早くダンスに誘われにいくのです!」と檄が飛んできただろうが、モリーは以前に、舞踏会への出席を巡って夫人と大喧嘩しており、「どうしても出席しろというなら、一人でいきます! それを認めてくださらないなら、わたくしはもう尼にでもなりますから!」と宣言し、少々常識には欠けるが、単独での参加を認めさせていた。




しかし、それは彼女なりの夫人への配慮なのだ。




夫人は知らないが、モリーはダンスができない。いや、正確には他者との身体的接触ができない。




原因は彼女の〝恩寵〟にある。




彼女の力は〝予知〟。左手の小指で誰かに触れれば、その相手の十年後の姿が見えるし、左手の薬指で触れば一秒後の姿が見える。




たいへん便利な力のようにも思われるだろうが、じつのところ負の側面が非常に大きい。




まず、ひとたび対象者に触れれば、彼女の意思に関わらず、強制的に十年後の彼らの視覚・聴覚情報が流れ込んでくる。




十年後の彼らが排泄中だったり、性行為中だったりするなら、まだマシだ。最悪なのは、死んでいる場合である。このとき、彼女は〝虚無〟を感じる。




永遠の闇、無の世界、地獄、どのように表現するにせよ、全身の毛穴が開き、背筋がうすら寒くなり、三日三晩は悪夢にうなされる。




また、〝予知〟は世間の評判もすこぶる悪い。大昔に予知能力者が〝救世主〟と呼ばれた恩寵者を殺して以降、予知の恩寵持ちは迫害の対象だったのだ。ロイグリア国教会が弾圧令を取り下げたのもほんの数十年前の話だ。




万一、モリーが予知持ちだと知られれば、モントゴメリー家にとっては大スキャンダルだ。彼女自身の結婚の見込みが完璧になくなるだけでなく、妹たちの結婚条件も著しく悪くなる。




なので、彼女は公的には〝恩寵なし〟で通している。




もっとも、それはそれで別の問題も引き起こしている。恩寵が発現しない人間は、社交界において真の貴族とは見なされないからだ。




モリーが二十六まで独身なのは、出来の良すぎる頭脳や可愛げのない性格、大柄な体格、時折の奇天烈な行動はもちろん、〝恩寵なし〟であることも多分に影響しているだろう。




モリーに誘いをかける男性は滅多にいないし、いたとしてもモリーは接触を恐れて断ってしまう。社交界にデビューして八年が過ぎていたが、彼女は壁の花としての過ごし方が上手くなるばかりだった。




できるだけ気配を消し、殿方の政治談義などに耳をそばだてつつ、給仕される料理を楽しむのだ。




幸いなことに、ここ、クリフォード邸のコックは腕ききだった。オマール海老のビスクは濃厚なコクがあり、豚とナスの煮込みはスパイスの利かせ方が絶妙だ。




彼女がレモネードのおかわりをもらおうと立ち上がったときだった。通りがかった使用人が絨毯の僅かなほつれにつまづき、盆に乗せていたスープ皿が飛んできた。




モリーの肘まである手袋に熱い汁がかかる。




彼女は火傷する前に素早く手袋をとった。




あわてた使用人が「申し訳ございません!大丈夫でしたか!?」と、彼女の手、それも左手の小指に素手で触れた。




瞬間、虚無に襲われた。




まあ、お気の毒。虚無から立ち戻ったモリーは憐れみの目線を使用人に向けた。この年若い青年は十年後には亡くなっているのだ。




「淑女に気安く触れてはならん!」駆けつけた年長の使用人が、若い使用人の手を彼女から外そうとして、一瞬、小指に触れた。




また虚無。




モリーは気分が悪くなり、思わずよろめいた。隣にいた初老の立派な紳士が彼女を受け止める。




紳士の手が、彼女の小指に接触し、さらに虚無が襲ってきた。




「大丈夫ですかな?」と、紳士。




彼女は心を強く持つと、背筋を伸ばした。紳士や使用人たちに礼をいい、自分には何の問題もないことを告げると、落ち着いた風を装ってもとの椅子に座り直した。




目の前では、シャンデリアから降り注ぐ柔らかな光と四重奏の流麗な音色に包まれて、美しく着飾った男女が手に手を取り合いいきいきと踊っている。




モリーは彼らを見つめながら、いまほど起こったことを考えた。




同一の場に集った三人の人間全員が、十年後に亡くなっている確率はどのくらいだろうか。




ひと月ほど前、医学雑誌に掲載されていた論文を思い出す。ここロイグリアにおける市民の平均寿命は六十六歳前後だ。さきほどの男性たちが、十代、四十代、五十代と仮定すると、それぞれが十年後に亡くなる確率は十七パーセント、四十二パーセント、六十三パーセントほどか。それが同時に起こる確率は四パーセント前後。




偶然で済ませられる数字だ。




彼女は思案したのち、左手の小指で自分の頬に触れた。




現れたビジョンは不鮮明だった。複数のビジョンが入り乱れる。




ひとつの未来では、彼女はテーブルクロスすらかかっていない食卓につき、ルーシ帝国風の黒パンを飾っていた。




また別の未来では、天蓋付きのベットのなか、ふわふわの布団に包まれている。




そして、さらに異なる未来はーー虚無だった。




未来がいくつも見えるのは、いまこの瞬間が分岐点になっていることを示している。そして、分岐した未来のひとつでは、彼女は死んでいる。




彼女を含めた四人の人間が十年後までに全員死ぬ確率は、〇.八パーセントほど。




偶然で済まられない数字だ。




彼女は立ち上がると、よろけたふりをして近場にいた紳士淑女に次々に触った。




七人連続で虚無を感じた。そして、八人目となった二十歳ほどの女性がこの不可解な事態の原因を教えてくれた。




十年後、この年若い女性は鏡の前にいた。鏡面のなかには、十歳分歳をとった姿が写っている。現在の女性は華やいだ美人だが、鏡のなかの彼女はこめかみに大きなあざができていた。あざの周囲は皮膚がひきつれている。どうやら、火傷の痕らしい。




女性は壁際に並んだ蝋燭に火をつけ始めた。あたたかな光のなか、壁一面に貼られた古新聞の切り抜きに女性の目の焦点が合う。




見出しはこうだ。


「クリフォード邸にて悪夢の惨事。火災にて紳士淑女百八十六人死亡」


「ペンドラゴン兄弟および、獅子卿死亡。新しい円卓の騎士選定は難航か」


「陸軍大臣、ペンドラゴン兄弟の死は〝国家的損失〟」


「出火原因はペンドラゴン弟の恩寵の暴走か。クリフォード嬢の〝占い遊び〟が招いた惨劇」


「不可解な大爆発の謎」




モリーは現実に戻り、息を吐いた。


背中に冷や汗が滲み出す。




火災、まもなく大火災が起こるのだ。


それがいつかはわからない。


一時間後かもしれないし、十分後かもしれない。


今かもしれない。




一刻も早く、ここから立ち去りたい!そんな気持ちが湧き出したが、足は一人帰宅することを拒否した。




これは人としての責務なのだ。街に向かってくる狼の群れを見たなら人々に知らせなければならないし、船底に空いた穴を見つけたならば、塞がねばならない。人々の命を救えるのは彼女一人なのだから。




彼女はまずペンドラゴン卿の弟である、ウーゼル・ペンドラゴン大尉に忠告を与えることにした。




彼は社交界では著名な男性の一人だ。ペンドラゴン卿の双子の弟で、炎の恩寵〝紅いの巨人〟で軍を支える若き英雄。爵位こそないが、ペンドラゴン卿は気前の良い財産分与を予定しているし、見た目は卿同様の男前、そして気難しいとされるペンドラゴン卿と違い、人当たりがよかった。そのため、独身女性とその母親たちにとって、少尉はペンドラゴン卿本人に匹敵する優良物件であり、いまもまさに大勢の女性が群がっていた。




モリーはを彼女らの壁かき分けて、強引にウーゼルに接近した。途中、女性たちの肌に触れて幾度も虚無を味わう羽目になったが、気にしてなどいられない。




どうにかウーゼルの肩を掴み、彼が振り向いたところで「大尉、どうかわたくしと踊っていただけませんでしょうか」と息を切らせながら囁いた。




周りがざわめく。ダンスの申し出は男性から行うのが礼儀だ。いくらモリーが破天荒で知られるオールドミスといえ、あまりにも常識外れである。




受けてちょうだい。モリーは願った。二人きりで話せれば、でまかせを並べ立てて、彼を家に帰らせることができるかもしれない。ようはクリフォード嬢との〝占い遊び〟とやらをさせなければいいのだ。




ウーゼルは、モリーに向かってうっとりするような笑みを浮かべると「申し訳ございませんレディ。先約がありますので」と簡潔に断ってきた。




彼はそばにいた若く美しい女性の腕を取って広間の中央へと進んでいく。モリーはそれを追いかけて、再度懇願した。




周りの女たちがモリーを見てくすくす笑う。


「まぁ、みっともない。婚期を逃しかけて頭がおかしくなったのかしら」という声が聞こえる。




ウーゼルには、あっさり固辞し、ダンスの輪の中へと入った。




ああ、もう!




モリーは気持ちを切り替えた。落ち込んでいる暇はない。次はウーゼルを暴走させたクリフォード嬢だ。




公爵嬢は、幾人もの青年たちに囲まれていた。当世風の美人で、肌は白く、首も手足もほっそりし、コルセットで締め付けたウエストはモリーの太ももほどの太さしかない。




近年の美の流行は〝儚さ〟だ。風に吹かれただけで倒れるような女性ほど美しいとされている。一部の女性向け雑誌などは〝究極の美は、結核を患った女性にある〟とまで書いていた。




農耕馬のように頑健なモリーには、縁遠い美だ。




彼女は力強く男たちをかき分けると、公爵嬢の肩を掴んだ。単刀直入に「新聞社があなたの〝占い〟に興味を持っているようよ。お気をつけて」と告げる。




クリフォード嬢の人形のような顔が、困惑する。




「いきなりなんです? そもそもあなたはどなた? 気をつけるって?」




手から伝わってくる未来は、例によって虚無だ。


いま程度の警告では、未来の流れは変えられないのか。




モリーはさらに言葉を続けようとしたが、取り巻きの青年たちが割って入った。


「まあまあ、ご婦人。どのようなご事情か知りませんが、せっかくの舞踏会です。少々落ち着かれては?」といいながら、モリーとクリフォード嬢を引き離す。




クリフォード嬢はその隙に青年たちの一人と逃げるようにしてダンスする人々のなかに入った。




モリーはため息をついた。


わかってはいるが、未来を変えるのは簡単ではない。




だが、諦めるわけにはいかない。


百六十を超える人の命がかかっているのだから。




彼女は次のターゲットに向かった。




今度は壁際に一人たたずんでいる、マーク・ペンドラゴン公爵だ。ウーゼルの兄で、現ペンドラゴン家当主。たいへんなハンサムで、恩寵〝青い巨人〟の使い手、そして多くの女性を悲嘆のふちに追い込んだ冷血漢。




ゴシップ紙によれば、二十人を超える貴族の御令嬢が彼にアプローチし、すげなくあしらわれている。つい先週も、ロンドン三大美人の一人であるエレイン・ラムゼイ伯爵嬢がつれなくされたばかりだ。




エレイン嬢の報道があったばかりだからだろうか、今日の女性陣は彼の近くに集まりながらも、少し距離を置いている。みな、ペンドラゴン卿の様子を伺い、機嫌のほどを探っているらしい。




モリーがこれ幸いと近づくと、卿はあからさまに不機嫌を隠さない表情で彼女を睨んだ。




彼女は息がしづらくなった。


彼の瞳はなんと神秘的なのか。一度見たら目を離せなくなるような不可思議な引力がある。


そして、その目が敵意をぶつけてくる。


思わず踵を返したくなった。


だが、人命がかかっているのだ。


躊躇している場合ではない。




「こんばんは、公爵様」彼女が頭を下げると、ペンドラゴン卿は開口一番「君には節度というものがないのか」と吐き捨てるようにいった。




「なんですって?」と、モリー。




彼が目を細めた。




「さきほどからの君の振る舞いを見ていなかったとでも? 手当たり次第に男性に触れて誘いをかけ、淑女たちを押し退けて弟に迫り、うまくいなかければ次はぼく。モントゴメリーの長女は変わり者だと聞いていたが、ここまで恥を知らないとは思わなかったよ」




モリーは口をぱくぱくさせた。


驚きと怒りで言葉が出てこない。


ペンドラゴン卿自身含めたみなの命を救おうとしているのに、なんという侮辱か。




彼女は右手を左手で押さえ込んだ。彼の頬を叩いてしまいそうだったからだ。




そのさい、左手の小指が右手に触れ、未来が激しく揺らいでいるのが感じられた。無数の未来が同時に見える。




ここだ。彼女はピンときた。いまこの瞬間こそが、未来の分岐点なのだ。ペンドラゴン卿を叩こうとする思いが、未来を揺り動かしている。だが、まだ弱い。叩く程度では足らない。




もっとよ。もっと、なにかーー。




彼女はすぐ横を通りがかったウェイターの盆からグラスを拝借すると、中に入っていた水をペンドラゴン卿の胸元にぶつけた。




彼の真っ白なクラバットにシミがひろがる。




彼女は左手の小指を掌に押し当てた。


虚無が、死の未来が遠ざかっていく。




ペンドラゴン卿を濡らすことが、どう火災が防ぐことにつながるのかはわからない。


しかし、何はともあれ未来は変わったのだ。




ホッとしたところで、彼女はペンドラゴン卿の体から青白い霊気のようなものが、うっすらと放たれていることに気付いた。




彼が怒りを押し殺した調子でいう。


「君のような礼儀知らずと結婚する男は不幸としかいいようがないな」




彼女は公爵を睨み、公爵もまた彼女を睨んだ。




視線がぶつかり合うと、一瞬、公爵の青い瞳に戸惑いの色が浮かんだ。怒りと困惑が入り混じっている。




その隙をついて、湧き上がった怒りがモリーの舌を動かした。




「あなたのように傲慢な男性と結婚する女性も世界一不幸でしょうね。命の恩人にそんな無礼な口を聞くなんて。あなたの弟とクリフォード公爵嬢のーー」




モリーは手で自分の口塞いだ。




ペンドラゴン卿が男らしい眉を寄せる。


「恩人? なんの話だ?」




彼女は素早く頭を下げた。




「まことに失礼いたしました。酔いすぎたようです。哀れなオールドミスのたわごとですので、お気になさらないよう」




これ以上、余計なことをいうべきではない。


万一にも予知の恩寵を気取られれば厄介なことになる。




彼女は足早に会場を後にすると、貸し馬車で家路についた。


小窓の外を流れるロンドンの夜景を横目に、彼女はペンドラゴン卿が会話を忘れてくれることを祈った。




⭐︎⭐︎⭐︎




もちろん、マーク・ペンドラゴンは、モリーが望んだように彼女の言葉を忘れるようなことはなかった。




彼は、幼少期の体験から〝予知〟の恩寵者については、強い敵愾心を抱いていたし、誰かが予知を匂わせるような言動をしたときは必ず心に刻んでいた。




また、立場上、公務として予知能力者の居所を把握する必要もある。




彼はモリーがダンスホールから立ち去ったのちも、しばらくの間、出ていった扉を見つめ続けた。




少し頭を冷やして考えれば、いまさきほどのメアリー・モントゴメリーの一連の振る舞いは、明らかに常軌を逸している。その一方で、彼女の所作や言葉使いは、完璧な淑女であることを示していた。それに、あの緑の瞳。あの透き通った目には、強い意志と知性が宿っていた。そんな淑女が、あそこまで愚かな振る舞いをするものだろうか。今の騒ぎは社交界全体に広まり、彼女にはとんでもない悪評が立つ。




なのに、なぜ?




クラバットから水が染み出し、その下のシャツまでが濡れ始めた。彼はクラバットを外すと、上着のポケットに仕舞い込んだ。




彼女が予知の恩寵者なら、説明はつく。




彼は、弟のウージー・ペンドラゴンに近づくと、肩を叩いた。




兄弟はウージーの髪が僅かに赤みがかっていることを除けば、双生児のようにそっくりだ。




ウージーが驚いたように片方の眉をあげる。


「舞踏会嫌いの兄さんが珍しいですね」




「クリフォード嬢の〝占い〟を確認しにきたんだ」


もともと、彼はそのために来たのだ。




クリフォード公爵の娘ヘレナは、数ヶ月前から恋占いに凝っており、おおぜいの貴族の令嬢が彼女の元を訪れていた。




はじめ、社交界の大人たちは、十代の子供にありがちな禁忌を楽しむ反抗的態度と笑っていたが、ことが大きくなるにつれ、一部の人間は「クリフォード嬢は、ほんとうに予知の恩寵を持っているのでは」と噂していた。




「捜査局の仕事ですか。〝蒼い男〟持ちの義務はたいへんですね」ウージーが笑いながらいう。「でも、残念ながらあのお嬢さんには予知の恩寵なんてありませんよ。ろうそくを灯し、でたらめな呪文を唱えながら、ボロボロのタロットを出鱈目にめくっているだけです」




「詳しいじゃないか」




「じつは、一週間ほど前に、占ってくれたんですよ。ぼくと彼女は相性抜群で、未来を共にするかもしれないそうです。そういう手なんでしょう。彼女はぼくを狙うほかの女性たちに対しては、〝あなたとウーゼル大尉の関係は絶対に進展しない〟と予言してるそうですよ」




「バカな子供だ。よりによって予知者を気取るとは」




「まだ十五ですからね。麻疹みたいなものですよ。予知の恩寵者に対する偏見も理解していないんでしょう。そういう少し足らないところも可愛いじゃないですか」




「わたしは女性にも知性は欠かさないと思うが。ともかく、お前がすでに関係を築いているなら話が早い。彼女とわたしが内密に話をできるようにしてくれ。念のため、直接確認する」




「いいですよ。このあと、彼女の部屋に招待されてるんです。また特別に占ってくれるそうで。兄さんもいっしょに来てください。彼女も大歓迎でしょう。なんといっても兄さんは今シーズンのいちばん人気ですから」




マークは頷きながら考えた。


さきほどの無礼女は、ウージー、クリフォード嬢、自分の三人に話しかけた。無礼女が予知者であり、なんらかの未来を変更しようとしていたのなら、その未来は我々三人に関係するものだ。そして、三人の共通項といえば、クリフォード嬢の占い遊びしかない。




ここからどうなるのかは分からない。


あの女はマークの命は助かるような口ぶりだったが、ほかの二人はどうなのか。万一の事態を考えるなら、ウージーと共にいるべきだろう。




〝蒼い巨人〟と〝紅の巨人〟の二つの恩寵があれば、大抵の問題は片付けられる。




大抵の問題は。




⭐︎⭐︎⭐︎




翌朝、モリーが朝食室に入るや、次女のシーナと、シーナの双子の妹である三女のイブリンが駆け寄ってきた。シーナの手には新聞が握られている。




双子が声をそろえていう。


「「ねえねえねえねえ、お姉さま!なにがあったのか、話してくれるわよね!?」」




シーナとイブリンは社交界のデビューを来年に控えた十四歳だ。姉のモリーと異なり、二人ともほっそりした身体と綺麗なブラウンの髪、整った顔立ちを持っている。おしゃべりは過ぎるが、来年デビューすれば一番人気も夢ではない。




父親であるモントゴメリー子爵がテーブルの上で手を振った。


「シーナや、イブリンや、新聞を返してはくれんか? わたしが読んでおったのだ。二面のバネ足ジャックの記事の途中だったのだよ」




双子がモリーにくっつく。




「無理よお父様!だって、ようやくお姉さまが起きたのよ」と、イブリン。




続けてシーナがいう。「ほら、見てお姉さま、一面よ! クリフォード家が燃えたの。晩餐会の真っ最中に。お姉さまもいらしたのでしょ? ああ、お姉さま。火事はどんなだった?恐ろしかった?」




モリーは驚きのあまり、思わず固まった。


燃えた? 惨事は回避されなかったの?




「シーナ、亡くなった方はいたの?」




シーナが首を横に振る。


「いいえ、ペンドラゴン大尉が軽い怪我をしただけですって」




「そう、それはよかったわ! 昨日だけど、わたしはそのボヤ騒ぎの前に家に帰ったから、何も知らないの」




「「えー!」」と、双子。




モントゴメリー夫人が紅茶をスプーンでかき混ぜながらいう。


「それで、昨晩はどちらの紳士と踊ってきたの?」




「誰からも誘ってもらえませんでした」




夫人がスプーンを取り落とした。


大仰に手を額に当てていう。


「ああ、モリー。もう少し相手を思いやって婉曲的に伝えることはできないの? そんな調子だから、いつまでたってもお相手が見つからないのよ」




「「そうよ、お姉さま」」双子が声を揃えていう。「「お姉さまはもっと男性に積極的にいかないと。来年はわたしたちも社交界に出るのよ。そのときにお姉さまがまだお相手探しをしていたら、わたしたち恥ずかしいわ」」




「そうかねえ」モントゴメリー男爵が読者用のメガネを外して、ハンカチでレンズを拭いた。「わたしは、モリーに相手が見つからないのは、近頃の紳士たちに見る目がないだけの話だと思うがね。きっといつかは、この子の良さをわかってくれる紳士が現れるさ」




「「いつかっていつなの? お姉さまはもう二十六歳なのよ!? そんな年齢の独身の姉がいると、わたしたちに興味を示した男性たちは、わたしたちと結婚すると、いつかお姉さまの面倒も見なくてはいけないと考えるわ」」




「ああ、二人のいう通りよ」と、モントゴメリー夫人。「モリーが片付かない限り、シーナとイブリンまで結婚できないかもしれない。そうなったら、わたしたちはどうなるの? お父様が亡くなったら、領地はみんな遠縁のどこかの男子に奪われてしまうのよ。女三人、ほんのわずかな財産分与だけで放り出されるのよ」




「「ああ、お母さま! 大丈夫よ。わたくしたちはお姉さまというハンデがあっても、かならず裕福な方と結婚してみせるわ」」




「シーナ、イブリン、なんてやさしい子たちなの。そうよ、あなたたちなら、男爵や子爵どころか、どこかの公爵様の目にだってとまるわ。だってこんなにも綺麗で、こんなにも心優しいのだもの!」




夫人と双子が大げさに抱きしめ合うのを横目に、モリーはテーブルについた。




モントゴメリー男爵が小声でいう。


「気にすることはない。毎度のことだが、彼女たちは、ああして悲嘆にくれるのを楽しんでいるだけだよ」




「でも、さすがにお父様に申し訳なくなってきたわ。だって、わたしが舞踏会に行くたびにこの騒ぎですもの」




「いいさ、これも父の務めというものだ。モリー、いっておくがわたしを気にして、知性のない輩でもいいから結婚しようなどと考えないでくれよ。これ以上増えてはたまらん」




モリーが苦笑したとき、執事のグラハムが足早に朝食室に入ってきた。彼はモリーが生まれる前からモントゴメリー家に仕えている。常に泰然自若としており、何かに焦るということなど見たことがないが、このときは妙に焦って見えた。




「失礼いたします。モリーお嬢様にお客様です」




「こんな早くに?」夫人が双子から身を離して顔を顰めた。「礼儀のなってない方ねえ、いったいどなた?」




「マーク・ペンドラゴン公爵です」




モントゴメリー男爵が「〝蒼い巨人〟?」と興味深げにモリーを見る。




「「うそー!」」と双子。




夫人は両手で口もとを押さえた。


「まあ!まあ!まあ!モリー!なによあなた、誰とも踊らなかったなんていって。たいへんなお方の関心を引いたものね!さあさあさあ!お待たせしてはいけません。グラハム!早く広間にお通しして!南の窓際の一番日当たりのよいソファに腰掛けていただくの。ああ、モリー、なんでそんな着古した散策用のドレスなの。早く一番上等のものに着替えてなさい。えーと、ほら、そうね、一昨年仕立てた薄黄色のあれよ!さあ!急いで!」




モリーは首を横に振った。


「お母さま落ち着いて。わたしは公爵と踊ってなんかいないわ」




「まあ、それじゃあ、なぜ公爵様があなたを訪ねてくるわけ?」




「さあ?」


そういいつつも、モリーはどこか嫌な予感が止まらなかった。思わず、日頃の禁を破って自分の未来を積極的に確認したくなった。




左手の小指をゆっくりと曲げる。




指の先が手のひらにつく直前、彼女はどうにか指を止めた。




ダメよ。ダメ。こんなことくらいで未来を見てはダメ。




彼女は遠い昔に、別の予知者に言われた言葉を頭の中で繰り返した。




〝先を見すぎると、人生は消えてなくなる〟




常に予知を使い、確実に幸せになれる道だけを歩み続けることはできる。だが、それでは自分の意志で生きているとはいいがたい。台本通りに演じる役者と同じだ。ちょっとした不幸を逃れたいがあまりに、人生を〝運命〟に売り渡すのは馬鹿げている。




それゆえ、モリーは極力、予知の恩寵は使わないよう心がけていた。彼女が躊躇なく使うのは、誰かの命を救うときだけだ。




夫人が両手を腰に当てた。


「とにかくさっさと着替えてらっしゃい!どんな理由にせよ、公爵様がいらしてくださったことには違いないんだから!あなたの着替えが終わるまでは、わたしとシーナ、イヴリンでお相手しておきますから!」




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着替えを終えたモリーが談話室に入っても、夫人は彼女に気付かず話し続けていた。




「そういうわけで、あの子は恩寵が現れなかったんです。おまけにいつも訳の分からない本ばかり読んで、歌やピアノはさぼってばかり。だから腕前はいまひとつですの。母親として恥ずかしいったら、ありはしませんわ。でも、紳士の中には、ごくたまに、あの子のよくわからないお話を好む方もいらっしゃるんです。ただ、これまで、そうした方はみなお年を召した既婚者ばかりだったので、あの子は連れ合いを見つけることができなかったわけですが。いえね、たしかにあの子の見た目は、ここにいる二人に比べればいまひとつかもしれませんわ。でもーー」




ペンドラゴン卿は日当たりの良い窓の側のソファに腰を下ろし、その両脇にシーナとイブリンが座っていた。夫人は卿の前にわざわざ丸椅子を運び、そこに落ち着いて、黙りこくっている卿にひたすら言葉を浴びせている。陽光を浴びて身動きひとつしない卿は、整った顔立ちとたくましい肉体ゆえか、まさに神像のように感じられた。




モリーは咳払いした。


「お待たせいたしました、公爵様」




ペンドラゴン卿がじろりと彼女をにらんだ。その青い目の下には大きなクマができていた。




「メアリー嬢がいらしたようですね。それでは、恐縮なのですが二人だけにしていただけますか?」




「は? それは」




夫人が口籠った。


未婚の男女が付き添いなしで二人きりになるなど、常識的に考えられないことだ。




だが、卿は有無を言わさぬ口調で繰り返した。


「二人きりに」




卿の圧は凄まじかった。


日頃、世間体にこだわる夫人は、シーナとイブリンの手を掴むと、モリーひとりを残してそさくさと出て行ってしまった。




モリーが声をかける暇すらなかった。




扉が閉まったところで、ペンドラゴン卿が大きな声を出した。


「ご夫人がた!扉の前から離れていただけますか?」




「「きゃあっ」」と双子の声が聞こえたあと、ばたばたと走り去る音が続いた。




卿が心底うんぞりしたという風に、ため息をついた。


「君の母上は話がすぎる」




モリーはむっとした。母親のおしゃべりが度を越しているのは事実だが、この高慢男にはいわれたくない。




その母親のように、両手を腰に当てていう。


「それで、なんの御用ですの? 昨晩のわたくしたちは、翌朝早々においでいただくほど気安くはなかったと思うのですけど」




「君の恩寵について話がしたい」




「恩寵? さきほど母も申していたと思いますが、わたしには恩寵などありませんが」




「本当に?」ペンドラゴン卿が立ち上がった。「君には〝予知〟の恩寵があるんじゃないのか?」




モリーは心臓の鼓動が速まるのを感じた。


「まさか!よりによって予知だなんて」




「そうかな? あのあと、ぼくは君の言葉が気になってね。弟とクリフォード嬢にくっついていたんだ。クリフォード嬢は〝占い部屋〟で、ぼくとの相性を確認してくれたよ。ぼくと彼女にはたいへん好ましい未来が広がっているそうだ。そのあと、何が起こったと思う?」




「さあ? 検討もつきませんわ」




「窓の外から銃弾が撃ち込まれた」




「銃?」




予想できない答えだった。彼女が十年後の世界で見た新聞記事の切り抜きには、火災以外の話はなかった。




卿が続ける。


「弾丸は弟の腕に当たり、弟は反射的に炎の恩寵を使った。暴走だ。ぼくがその場で押さえ込まなかったら、クリフォードハウス全体が吹き飛んでいたかもしれない」




「まあ、恐ろしいお話。今朝の新聞には小火としか書いてなかったのに。銃だなんて」




ペンドラゴン卿が腕組みした。


「余計な騒ぎにならないよう、ぼくが差配したからだ。ともかく、君が何者かによる襲撃を事前に知っていたのは、予知の恩寵を持っているか、〝やつ〟の仲間だからだとしか考えられない」




「わたしは予知など持っていませんし、誰の仲間でもありません」




「しらをきるつもりか?」


卿は苛立った口調でいうと、モリーに近づいた。彼の背中から青白い手の形をした光体が飛び出し、一瞬の間に、彼女の両手の手袋を抜き取った。




彼女が抗議する間も無く、卿がむき出しになったモリーの両手を握る。




たちまち、恩恵が発動した。




彼女の恩恵は左手の小指と薬指に宿っている。




薬指は1秒後の未来が見える力だ。1秒後、二人はまだ手を繋いでいるということがわかった。




小指は十年先の未来が見せてくれる。




十年後、ペンドラゴン卿はとてつもなく立派な食堂で朝食をとっていた。このモントゴメリー家のタウンハウスの食堂の十倍はありそうだ。黒壇のテーブルは磨き上げられ、つややかに輝いている。




白髪の執事が「旦那様、奥様、本日のご予定ですが」と、声をかける。ペンドラゴン卿が向かい合って座る女性に目を向けた。その顔は、モリーが鏡の中で見る顔そのものだった。ただし、十歳分歳をとってはいたが。




彼女は唖然とした。




奥様!!??




わたしがこのとんでもなく嫌味な男性の、妻!?




現在のペンドラゴン卿が挑戦的にいう。


「どうかな? このあと、ぼくがどうするつもりかわかるか?」




じょ、冗談じゃないわ! モリーは心の中で叫んだ。こんな人と結婚するだなんて絶対にいや! なんとしても未来を変えなくっちゃ!!!


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