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角谷先輩が予約してくれたという居酒屋は、大学近くの安い居酒屋だった。俺は未成年なのでよく分からないが、「ビールが一杯二〇〇円で飲める!」という触れ込みで大学生には大変人気の居酒屋らしい。
店内には昭和ポスターのレプリカや赤い
さて奥の座敷へ通されると、早速簡単な自己紹介タイムが始まった。名前、学部、学年、趣味などなど。大学生になるまでにも幾度となく繰り返された通過儀礼である。
部員はそう多くなく、俺を入れても六人しかいない。
三年生は角谷先輩と藤松先輩、それから
四年生と二年生は一人ずつ、それぞれ
「あ、べつに名前は急いで覚えなくてもいいからな、神尾くん。俺なんか、未だに石井の名前忘れそうになるしさ」
「ちょっと角谷先輩! 一年間一緒におってそらないわあ」
「あはは、ごめんって。冗談冗談!」
「もう、頼みますよほんま!」
角谷先輩の冗談で、部員たちの間に小さな笑いが起こる。自己紹介を済ませてもどこか全員で出方を窺っていたような雰囲気が、一瞬で和らいだのが分かった。
薄々気付いていたことであったが、角谷大介という人は世渡りが底抜けにうまい。おそらく──いやほぼ確実に、部長にもなるべくしてなったタイプだ。もっともここにいる全員が、角谷先輩にはどこか好いた視線を向けているのだった。
*
「ねえ神尾くん。さっきの自己紹介で、下の名前を言わなかったのはわざと?」
そうして頼んだ料理やドリンクがいくつか運ばれてきて、しばらく経った頃。俺はお手洗いのために席を立つ。
そしてこのとき声を掛けてきたのが、のちに立花メルの死体写真を共有してもらうこととなる人物──天野明日香だった。
「……そうでしたか? 単純に忘れてただけですよ」
突然美人な先輩に声を掛けられたことに驚きながら、なんとか返答する。
「えー、本当かなあ。……じゃあ聞くけど、下の名前は?」
「……
白状しよう。天野先輩にはそう言ったが、俺は自分の名前が好きではなかった。少なくとも、できれば名乗りたくないと思う程度には! 両親には悪いけど、もうちょっと普通の名前は無かったんだろうか。
人に「アオイってどう書くの?」と訊ねられたときの説明のしづらさ、幼少期に散々「アオイちゃん!」とからかわれた屈辱、その他諸々のあれこれが重なって、俺は意図的に下の名前を名乗ることを避けていた。
それこそ、門倉のほうがよっぽど「葵」って感じがする。けれど悔しいかな、あいつはあいつで「朱雀」という格好良い名前を持っているのだ。
「なーんだ、もっとキラキラしてるやつかと思っちゃった。いい名前じゃない。
「そうですけど……。俺的には、天野先輩の名前のほうが素敵だと思いますよ」
「ふーん。じゃあ、明日香って呼んでみる?」
「や、呼べるわけないでしょ……」
「そう? 私は葵くんって呼んじゃおうかな?」
くすくすと肩を震わせて微笑む天野先輩の頬に、小さなえくぼが浮かぶ。
天野先輩はTシャツに細いジーンズというシンプルな装いで、腰まで伸ばした黒髪が素敵な人だった。こんな感想をつい最近も抱いた気がするが、やはり世間はおしなべて美女とイケメンに弱い。そして美人はTシャツでも何でも、とってもよく似合っていた!
*
「やっほー、葵くん。どう、飲んでる?」
次に天野先輩が声を掛けてきたのは、他の先輩たちの
これぞまさに死屍累々。とりわけ藤松先輩にいたっては、ウーロン茶とウーロンハイを間違えるというベタなことをしたせいですっかり夢の世界の住人である。
「いや……俺は未成年なんで、適当にりんごジュースとかっすね」
「ちょっとちょっとー。そこは嘘でも『飲んでます』って言ってくれないと」
「え、何でですか?」
隣に腰を下ろした天野先輩は、またくすくすと笑った。鈴を転がしたような笑い声。ゆるんで少し開いた唇が、やけに近い。
「だって、お酒のせいに出来ないでしょ?」
テーブルの下で、彼女のほそい指が俺の左手と絡む。
そしてとどめを刺すように、
「葵くん、こっそり抜け出しちゃおうよ」
と耳元でささやかれてしまった。
完敗だ。抗えない、この人の魅力に。
こんなことを言われて、平然としていられる奴がいるだろうか。そっけない態度を取れる奴がどれだけいるだろうか。かく言う俺はというと、色々とどうにかなりそうになっていた。嫌いなはずの下の名前も、この人が呼んでくれるなら悪くない気がした。
「俺なんかと抜け出して、噂されちゃいますよ」
「うーん。意外とそれが目的だったり?」
天野先輩が、急かすように俺の手を引く。唯一生き残っていた恐山先輩が快諾してくれたこともあり、俺は彼女に言われるがまま、そそくさと居酒屋を抜け出すことにしたのだった。
口に出しては言えなかったが、ほのかに好意を抱いている天野先輩と、夜の学生街を歩く。そうして迷子の子どもみたいにあてどなく繁華街をぶらついて、ちょうど近代美術館の前を通りがかった時だ。天野先輩の頬に、またも小さなえくぼが浮かんでいた。
「ねえ、葵くん。良かったらうちに来ない?」
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